『<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹 1/5

機械としての身体

オイディプス・コンプレックスに限らず、人間の欲望はほぼ既定の発達経路を巡るのであり、ごく少数の人だけがその経路から見て無駄なところに欲望を向けている、という見方、常識に揺さぶりをかけるのが、この本の基本姿勢となる。(34)
・「死への欲動」のようなまとまった欲動があるわけではなく、元々バラバラの運動をしていたであろう諸「機械」が、私たちの各機関に割り振られ、部分対象=部品として決まった役割を担い続けることに無理があり、もう一度バラバラになろうとする傾向が、身体を構成する機械たちにある。(48)
・「器官なき身体」とは、身体の各所(器官)に登録された欲望機械の運動がまずあって、「主体」はそれらの運動に巻き込まれ、運動の間を浮遊し、一つの機械から別の機械への移行で生じる新たな形態のエネルギーを消費する、欲望機械の運動の残滓にすぎない。つまり「私は○○の欲望を抱いていたはずだ」と事後的に、その働きが想定されるにすぎない。(62)
・『失われた時を求めて』の主人公は、「器官なき身体」と捉えられる。D+Gにとって、芸術家というのは、欲望の流れを一つの体系へと強引にまとめ上げる理性的な人ではなく、欲望の荒れ狂う流れを自らの(器官なき)身体でそのまま受け止め、ストレートに表現する分裂症的な人、固定したアイデンティティをもたない人である。(113)