『ドゥルーズ 流動の哲学』宇野邦一 2/4

根源的な差異としての強度

・私たちの常識は、たとえば自然界を人間と人間外、生命と非生命に分割し、生命を動物と植物に分割し、さらに動物と植物、有機物と無機物を様々に分類する。そのような<同じもの>が確定されると、知覚は落ち着いて別のレベルの差異に注意を向けることができる。<同じもの>は、生きるための経済、効率にとっては、役に立っているのだ。それでもドゥルーズは、差異に関してまったく別の配分の仕方があるという。(131)
・強度は、質にも量にも還元されない、質以前、量以前の「即自的」差異である。そして強度が「感覚されうるもの」にかかわるのは、それが質でも量でもないものとして、一気に把握することしかできないからである。例えば、時速100キロメートルを時速1キロの100とはみなせず、摂氏100度も1度の100倍とはみなせない。(157)
・根源的な差異としての強度。おそらく私たちのどんな行動も認識も、このような根源的な差異から逃れることはできない。私たちは、たしかにそのような差異につねに触れ、「感覚」しながら、それをたえず量や質に翻訳し、量や質によって規定された次元の限界にしばしば立つことになる。(159)