『小説伊勢物語 業平』高樹のぶ子

 伊勢物語に興味を持ったのは、高校の古文の授業で、「芥川」と「渚の院」を読んだ時だった。古文の授業は文法や現代語訳の負担が大きく、内容を味わうことはあまりできなかったが、「芥川」のふしぎな雰囲気、「渚の院」のセンスあるタイトルも含めた味わい深さは、高校生の私にもよく理解できた。高校の古文で物語まで楽しめたのは、この伊勢物語だけだったと思う。
 そのため、いつか伊勢物語を通読したいと思い、大学時代に文庫版で読んだり、伊勢物語を扱う講義を受けたりしたのだが、なんとなくあっさりとしていまいち楽しめなかった。古文の授業で唯一楽しめた物語なのに、いざ自分で読むといまいちなのはどういうこと?そのような思いから、伊勢物語はずっと私の心に引っかかるものとなっていた。
 この『小説伊勢物語 業平』は、短編集のような伊勢物語を、業平の一代記に組みかえたもの。源氏物語も現代小説版ではじめて物語世界に入っていけた私にとって、伊勢物語の世界の扉が開けるかもしれないという期待を込めて読んでみた。結果、最初は少しとっつきずらかったが、物語を最後まで読み終え、心に引っかかっていた伊勢物語を少し清算できたかな、と思えた。
 俵万智さんが、著書『恋する伊勢物語』のあとがきで、昔のひとは読む物も少なく、古典をゆっくりと読んだ。そして何回も読んだ。そのうち、読むひとのなかで、それぞれ自分なりの物語が立ちあらわれてきた、ということを書いていたが、本書はそのように立ちあらわれた物語の、幸福な一例であると思えた。
・・・・・・
 思いは歌にして出(いだ)し贈れば、それにて鎮まるものがあります。思いは歌の舟に乗せれば、離れてくれます。そして安らぐ。『露の辿り』
 薄明りに照らし、声にして読みなおしました。声にすることで、高子姫に、通じる気がしたのです。『忍ぶ草』
 業平はまた、このようにも思いました。
 歌に詠むことにより、荒みて徒なるもの、つまらないすずろ事も、情緒のある雅へと変じるものなのだと。『姉歯の松』
「……冷たき雪がありて、花の喜びがある。花の明るさありて、雪の深さも一段と興趣を覚えるもの。業平、いかがか」
「……花にも雪にも、それぞれの闇がございます。その闇を見る心こそ、雅であろうかと」『花散り雪こぼれ』
 業平の歌をなぞるように、供人たちが声にて和します。
 それによりこの言祝ぎは、皆の思いとなりました。
 御息所と業平、車の上と下にて、ひたと目が合いました。
 そこには年月の距たりこそございましたが、執心より離れた友のような、深くあたたかな思いが満ちておりました。『紅葉の錦』
 業平、この歌会の成り行きに安堵し、覚悟もいたしたのです。
 これからは詩ではなく歌の世にしなくてはならない。それが高子様の望みであり、業平に頼まれたお役目でもあるのだと。叶うことのなかった恋情は、行く末々まで歌の世を、子宝としてこの国に残すのだと。『紅葉の錦』
「……強うはありませぬ。私とて、飽くまで求め、満ちるまで手に入れとうございます。ではございますが、歌においては、すべてに満ちた歌の何と趣き薄きこと。言祝ぎの歌など、つまらぬものばかりでございます。恋情(こいなさけ)こそ、飽くことなどございませぬ。叶わぬゆえに歌に哀しみや趣きが生まれます」『鶯のこぼれる涙』
「……男の恋は二つ方向へ向かうもの……叶わぬ高みの御方への憧れと、弱き御方を父か兄のようにお護りしたい恋と……いずれも叶うこと難く……ゆえに飽くことも無し……」『ついにゆく』