『ひらがな日本美術史4』『ひらがな日本美術史5』(再読) 橋本治

 『ひらがな日本美術史6』を読んだことをきっかけとして、以前読んだ4巻、5巻を一部再読した。

俵屋宗達

 私は宗達じゃないから、彼の頭の中なんかは分からないが、俵屋宗達という人は、数ある日本人画家の中で、最も明確に「龍」という生き物の形を説明出来る人なのである。「俵屋宗達を最高の画家とするような形で、日本の美術は存在している」というのは、おそらく、「俵屋宗達の龍が一番リアリティがあるから」ではない。宗達の超越は、「彼が平気で説明という行為を超えていて、しかもなおかつ、説明しようと思ったら、誰よりもちゃんとその説明が出来るから」である。
 日本の美術は、「なんとかして“説明”という理屈臭さを超えたいと思っているものの集積」なのだろうと、私は思っているのである。(4巻37)

尾形光琳

 絵の具をペタペタ塗ることが“絵”であったフランスの画家達は、「色の分散=光」と捉えて、印象主義となった。しかし、十七世紀末から十八世紀初頭にかけての日本の印象主義尾形光琳は、光ではなくフォルムに反応した。「線=面」を達成してしまった俵屋宗達の後に来る日本の天才画家は、線を捨てることによってフォルムに反応し、あっさりと「日本絵画の伝統」から抜け出してしまった。(93)
 ≪紅白梅図屏風≫のすごさは、これが「一〇〇%尾形光琳オリジナルの技法によって描かれた絵」であることで、そんなすごい絵を描いたのは、日本にこの人くらいだろう。それが出来てしまった時、表現者に“苦悩”などは存在しない。そして、オリジナルの技法が「自分自身の表現」として結実する時、そこに当人の心理が介在しないはずはない。だから、「なんだか分からないがやったぜ!」は、意外と真実かもしれないのだ。(96)

円山応挙

 その清潔感は、「若さのエネルギー」でもあって、しかも青年応挙は、一生年を取らない。逸脱もしない。そのエネルギーは、「きちんと描く」ということに費やされて、ついに破綻をしなかった。だからこそ彼には、グロテスクないびつが微塵もなく、だからこそまた、成熟もない。円山応挙は「完成された青年」で、けっして巨人でも巨匠でもない。
 ・・・・・・応挙は「年を取る必要のない時代」に生まれて生きた画家なのだ。なにしろ、十八世紀の京都は、革命とは無縁に存在しえた市民社会だったのであるから。(5巻20)
 明治になった狩野派には、もう「なんでも描ける技法」がなかった。それを持っていたのは、京都の円山四条派であり、学ぶべきは円山応挙だった。だからどうなったのか?明治になって登場する「新しい日本画」は、十八世紀の円山応挙から一歩も出なくてもいいという危険性を含んでしまうのである。(25)

呉春

 曾我蕭白がこだわり、円山応挙があっさり捨ててしまった水墨画の精神性は、蕪村の絵に新しい形となって宿るということである。蕪村という人物を通して、その精神性は、当時の時代性とマッチするということである。だからこそ、≪夜色楼台図≫の夜には、人らしい情感があって、その弟子である呉春の絵には哀愁がある。ただそれだけのことである。(61)

勝川春英

 (片岡仁左衛門という)「違うもの」を描いて自分なりの達成を得るためには、それまでと違うテクニック、違う世界観が要求される。春英にそれを可能にしたものがどこから来たかは明らかだろう。前年の写楽である。そして、すでに一家をなしたプロの画家、勝川春英は、安易に写楽の真似をしなかった。それが、「自分自身の表現、自分自身のもの」となるための時間を待った。だから、≪七世片岡仁左衛門高師直≫は、・・・・・・「こういう絵を描く画家もいたのか」と納得させるだけの力を持つ、勝川春英オリジナルの境地なのである。(189)