『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』 河合隼雄 村上春樹 1/2

 以前読んだ『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』で、よく引用されていたこの本。数年前から、河合隼雄氏の著作に触れることが多いため、再読してみた。

国家の歴史と個人

 対談が行われたのは1995年。オウム真理教による一連の事件があったころであり、直接・間接的にその影響が見られる。短く、読みやすい本だが、対話者は二人とも、こころの問題を深く考えてきた方であり、はっとさせられる指摘も多い。たとえば、以下の部分は、村上氏が『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハンを書いた理由を説明したもの。以前読んだときは若干の反発を感じたが、今はこの考え方が少し理解できる。

 それからすぐ、真珠湾攻撃五十周年というのがあった。これも、ぼくが生まれる前のことですから、訊かれてもわからないのですが、やはりどうしても問題として出てくる。そうすると、また自分のなかの第二次世界大戦というものを洗いなおさなくてはならないですから、これもけっこうきつかったです。でも、一つひとつ考えていくと、真珠湾だろうがノモンハンだろうが、いろんなそういうものは自分のなかにあるんだ、ということがだんだんわかってくるのですよね。
 ……自分とは何かということをずっとさかのぼっていくと、社会と歴史ということ全体の洗い直しに行き着かざるをえない、ということになってしまうのです。(72)

夫婦のありかた

 また、次は夫婦のあり方に関する指摘。私の周囲の人間の多くが結婚したいま読むと、なかなかに興味深い。

 日本人の場合は、異性を通じて自分の世界を広めるということを、もうすっかりやめてしまうというのもあるんですね。細かいことを調べて学者になっているとかね。エロスが違う方を向いているのです。エロスを女性に向けるというのは、相手は生きているからこれはなかなか大変ですけれど、エロスを、たとえば、古文書に向けてもいいわけです。ここのところ虫が食っているなとか、なんていう字なんだろうなんて考えることにすごい情熱を燃やすでしょう、それは危険性が少ないですね。……生きた人間ではないものにエロスを向けている人はすごく多いですよ。(107-108)