萩原朔太郎詩集

 詩は頭で理解するものではない。一人の詩人のすべての作品が、読者にとって同じだけの魅力をもつとは限らない。
 それなりに詩に触れたことのある人間にとっては分かりきったことだろうが、それでも詩集を紐解く際には、想像以上の感銘を期待してしまうのが人情というもの。特に、萩原朔太郎のような、第一級の詩人の作品集であれば、なおさらである。
 この詩集を一読すれば、作者が自分の病的な感覚を分かりやすい口語で綴っていること、風景や事物に自己の鋭敏なリリスズムを感応させて言葉を紡ぐこと、あるいは擬音語のすぐれた使い手であることが良く分かる。
 しかし、これらの詩人の特徴は理解できるのだが、それが読者である自分の感情とうまくかみ合わず、もどかしさを感じたのもまた事実である。現代から見れば、大正時代のロマンティシズムとは、それほど縁遠いものなのだと言えば、そこまでの話なのだが。
 それでも、「虫けらの卵」のような春の生々しさや、都市の片隅での孤独や、「きめのあらい動物の皮膚」のような田舎の不気味さなどをうたったいくつかの作品には、惹かれるものがあった。論理的に説明できない微妙な感覚を、詩人独特の比喩で表現しており、それが自分にうまくはまった場合の腑に落ちた感がすごい。そして、別の読者の感性には、また別の詩が強く働きかけるだろうことも、なんとなく理解できるのだ。
 病的なまでの鋭敏な感性や、擬音語のおもしろさが、教科書的な萩原詩の特徴なのだろうが、それらも愉しめなければ詩の読者にとって意味をなさない。むしろ、これらの分かりやすい詩作技術の陰に、個々の読者に向けて調合された、作者の魔術性が隠されていると見るのだが、どうだろうか。

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)

萩原朔太郎詩集 (岩波文庫)