『ウンベルト・サバ詩集』 1/2

「もし今日、トリエステに着いて……なにげなく選んだ道を、サバとともに歩くことができたなら……」
 数年前の夏のある日、私は所用でトリエステに行く機会をもった。……途中、道ですれちがう人たちに、銀行や税関の重々しい建物に、手摺のついた細くて急な石畳の坂道に、私は目をこらしてサバの姿を追いもとめた。どこかに、まだ、彼の匂いが残っていないかと。
 これでもない、あれでもないと探しあぐねる私の心に、一つの考えがひらめいた。やはりそうだったのだ。すべての真の芸術作品とおなじように、サバの詩は、まんまと私を騙しおおせていたのに違いない。そして長いあいだ私のなかで歌いつづけてきたサバのトリエステは、途方もない拡がりをもつ一つの宇宙に育ってしまっていて、明るい七月の太陽のもとで、現実の都市の平凡な営みは、ただ、ひたすら戸惑いをみせているにすぎないのだった。

 これは、サバの翻訳者である須賀敦子氏が、詩人が生まれ育ったトリエステを初めて訪れた時の印象を綴った一文である。この訪問は、氏にとって小さくない失望を感じさせるものであった。
 しかし、サバの中のトリエステとは、本当に読者を騙すような、作り上げられた偽物の舞台だったのだろうか?

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 トリエステは二度訪れたことがある。一度目はヴェネツィアからの日帰り旅行で。二度目は、連休を利用した二泊三日の滞在で。
 サバのほかに、ジェイムズ・ジョイスリルケが住んだ町。かつでオーストリア帝国の領地であり、皇妃エリザベートが何度も訪れた街でもある。街にはイタリアらしからぬ中央ヨーロッパ的な建築やお城がある。そして足を延ばせば、すぐにスロベニア領に行ける国境の街でもある。
 街の小ささには似つかわしくないほど、さまざまな歴史が重層的にある一方で、その風景は、思いのほか特徴がない。「ふしぎな街」とは様々な都市に用いられるありふれた形容詞だろうが、トリエステほどその言い回しが似合う街も少ない。
 サバの詩にはそんな歴史も出てこないし、反対に、たいくつな、散文的な風景をただ歌っているわけでもない。それでも、次の詩から受ける情感は、同じ港町であるマルセイユジェノバでは生まれないものと思えるのだ。

怠惰の時間に倦んで耳を澄ますと、
おごそかな警告がきこえる、ものたちの、
そして深淵の声がきこえる。
彼が背いた原初の希望の声が、
暗い終末以前の、明るかった太古の声が。(『昼さがり』より)