様式としての「騎士道」と「恋愛」 ―『中世の秋1』ホイジンガ 4/6

 このように、社会全体を覆っていた「形式」であるが、その最たるものが「騎士道」そして「恋愛」である。
 たとえば、「騎士道」と王権の関係について。

 ブルゴーニュ侯国は、その理念として、つねに騎士道理想の衣を身にまとっていた。歴代ブルゴーニュ候のあだ名は、無怖候にしろ、豪勇候にしろ、「だれが恥じようが」というものにしろ、その意図は、騎士道理想の光輝のうちに、かれらの主君を置こうとするにあったのだ。(224)

 だが、所詮は形式の話。騎士道の理想は、次のような笑い話につながることもある。

 念入りに準備され、鳴り物入りで宣伝されながら、そのくせぜんぜん実行されず、されてもほんのかたちだけ、というような遠征計画が、この時代、しばしばみられたが、十字軍理想のことはともかくとして、これらはもう、政治的はったりの大法螺として流行したのだ、としか思えないのである。(228)

 また、恋愛については、著者は『ばら物語』を大きく取り上げている。

 (『ばら物語』について)この作品は、実に二世紀ものあいだ、貴族たちの恋愛作法を完全に支配したばかりか、およそ考えられうるかぎり、ありとあらゆる分野にふれての、まさに百科全書を思わせる題材の豊かさによって、読み書きのできる一般の俗人に対し、知識の宝庫を提供し、生きいきとした精神の糧をそこからひきだすことを、かれらにゆるしたのであった。
 ひとつの時代のはじめから終りまで、支配層の人びとが、生活の教養と知識を、恋愛術という枠のなかで学びとったということ、このことは、いくら重要視されてもされすぎるとくことはない。……キリスト教の徳目、社会道徳、生活形態のあるべき完全な姿、すべてはこの愛の体系に組みこまれ、真実の愛という枠の中にはめこまれたのである。(262)

 そして、ここにも形式と現実の断絶が見られる。

 宮廷風愛の理想を映す美しい作法と、婚約と結婚の現実とが、ほとんどすこしの結びつきももっていなかったがゆえにこそ、すべてこれ洗練された愛の生活に関する遊戯、会話、文章の諸要素は、なんらの制約も受けずに展開されたのであった。愛の理想、誠実と献身の美しい虚構は、結婚、とりわけて貴族の結婚につきものの、まったく物質的な思惑の局外に立っていた。この理想は、ただ、ひとを魅了し、ひとの心を高める遊びというかたちでしか、体験されえなかったのである。トーナメントは、このロマンティックな愛の遊びを、ヒロイックなかたちで示した。(308)