ときめく想いを失くすなんて −『チェーホフ短編集』 3/3

 そんた「恋バナ」が多いなか、短編集のラストを飾る『いいなづけ』は、主人公があまり恋愛に夢中にならない、やや毛色の違う作品。
 そのかわり、主人公の心をとらえるのは、今の自分の生活を変えること、そしてそれに象徴される古びた社会を変えること。
 いいなづけとの結婚への不快感に耐えきれなくなった主人公が、「生活をひっくりかえす」ために、町を出て、ペテルブルクに出る。そこで、彼女はこれまでの息苦しさから開放され、自分の望む人生に踏み出せたかに見える。
 しかし、物語の最後の場面では、かつての恋愛感情を失くしてしまうことへのうしろめたさが描かれる。

 サーシャがサラトフから手紙をよこした。いつもの踊っているような滑稽な筆跡で、ヴォルガ旅行はたいへん快適だったが、サラトフでちょっと具合が悪くなり声が出なくなったので、二週間前から入院している、と書いてあった。それが何を意味するのかをナージャは悟り、確認にも似た予感に捉えられた。そしてサーシャについてのその予感や想像が昔のように自分の心を乱さないということが、ナージャは不愉快だった。今のナージャを生きること、ペテルブルクに帰ることをひたすら考え、サーシャとの付き合いはなつかしいけれども遠い遠い過去のように思われたのである!(222) ―『いいなづけ』より 

 チェーホフの描く恋愛には、ハッピーエンドは少ないように思える。どちらかといえばやりきれなかったり、中途半端に終わるような結末が多い。私生活でも、おそらく大恋愛というものはしたことがなかっただろうと思う。
 それでも、このような描写を読むと、自分が経験するかは別として、彼も恋愛そのものや、それに思い悩む人間たちが好きだったのだろうな、と感じられるのだ。

かわいい女・犬を連れた奥さん (新潮文庫)

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