作品を支配する「暗さ」や「かなしみ」がどこからきているかといえば、それはこの生活から抜け出したくても抜け出さない、という虚無感なのだろうと思う。
食べていけるだけの生活はできている。家族も仲間もいる。でも毎日同じことの繰り返し。会話といえば、うわさ話や愚痴ばかり。
『ワーニャ伯父さん』の登場人物のなかでは、インテリに属する医師のアーストロフの次の台詞には、この思いが凝縮されている。
ソーニャ:ほんとに生活にご不満?
アーストロフ:そりゃ一般的に言えば、私も生活が好きです。けれどわれわれの生活、この田舎の、ロシアの、俗臭ぷんぷんたる生活は、とても我慢がならないし、心底から軽蔑せざるを得ませんね。そこで、じゃお前自身の生活はどうなんだ、と言われると、正直の話、なんともかとも、何ひとつ取柄はないですねえ。ねえ、そうでしょう、まっくらな夜、森のなかを歩いてゆく人が、遥か彼方に一点のともしびの瞬くのを見たら、どうでしょう。もう疲れも、暗さも、顔を引っかく小枝のとげも、すっかり忘れてしまうでしょう。……私は働いている――これはご存じのとおりです。この郡内で、私ほど働く男は一人だってないでしょう。運命の鞭が、小止みもなしに私の身にふりかかって、時にはもう、ほとほと我慢のならぬほど、つらい時もあります。だのに私には、遥か彼方で瞬いてくれる燈火がないのです。私は今ではもう、何ひとつ期待する気持ちもないし、人間を愛そうとも思いません。……もうずっと前から、誰ひとりとして好きな人もないのです。(141)
そして、二作品とも悲しい結末が待っている。『かもめ』は絶望した主人公のピストル自殺。そして、『ワーニャ伯父さん』は、つらい人生を受け入れる、ソーニャの次の台詞で終わる。
ソーニャ:生きていかなければ!ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、果てしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。
……
お気の毒なワーニャ伯父さん、いけないわ、泣いてらっしゃるのね。……あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、もう少しよ、ワーニャ伯父さん、もうしばらくの辛抱よ。……やがて、息がつけるんだわ。……ほっと息がつけるんだわ!(194)
演劇論では、悲劇の効用は、その結末によりカタルシスを得ることがとされているが、チェーホフのこれらの作品は、悲しすぎてカタルシスを得ることすらできない。だからこそ「悲劇」ではなく「喜劇」なのかもしれないが。
ただ、救いがないような結末を読んでいても、それほど絶望的な気分にならないのはなぜだろうか?それは、会話の巧みさや、物語の上質さによるものでもあるのだろうが、結局は、彼らの人生が実はそれほどつらく、苦しいものではないことが、ある程度予想できるからなのかもしれない。
どういうことかといえば、たとえば私自身の生活も、というかよほど刺激に満ちた人生を送っている人でない限り、生活自体は、退屈で面倒なことが多く、抜け出すことが難しい。だが、私たちに楽しみがないかといえば、そんなことはない。それは、戯曲の登場人物たちも同じこと。物語の結末は悲しいが、彼らの生活すべてが絶望的なものではないだろう。
人生について嘆いているようでいて、でもどこかかわいらしく、そして生き生きとしている彼らの会話を聞いていると、悲しいような、あたたかいような、不思議な感情がわいてくるのだ。
- 作者: チェーホフ,神西清
- 出版社/メーカー: 新潮社
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