24年後の世界で −「パンサル」の思想 4/5

 2005年に出た『パンツを脱いだサル』は「パンサル」シリーズの完結編。『はいた』(新装版)でも、栗本氏はこの本を参照してほしいと述べていた(逆に、1988年に出た『パンツを捨てるサル』には全く触れていない)。
 内容としては、「パンサル」の考え方を人類史的に広げるとともに、その考え方で「9・11」「ユダヤ人」「ビートルズ」などを分析したものとなっている。

・「パンツをはく」とは、身体の欠陥を道具や組織行動によって補うということと同義でもある。何にせよ、行動を起こす欲望は快感に基づかねばならない。そして、我々にとっての快感は、過剰を無理やり作り出し、それを使い尽くす(蕩尽)というところから生まれるのである。たとえば、大地溝帯で食料となるべき動物たちと出会ったとき、先方は腹を空かせていないと攻撃してこないのに、こちらが内面的快感に基づいて一方的に攻撃するということが生じてくるのである。(78)
・森とサバンナとが混在した土地で、明らかに身体的に弱化したヒトが生き残っていくためには、道具、特に武器の使用が不可欠だったし、集団性、とくに集団的攻撃性が必要だった。その攻撃性が残虐性に発展せざるをえなかったのは、生きるためだけに食糧を得るとか、子孫を残す生殖行動としてのみ性行為をするといった、動物としての本能の範囲内だけでは人は生きていけなくなっていたからである。
 生きるためには、ここで「パンツ」が必要になったわけだ。そして、生きるために生み出された文化のほとんどが、攻撃性をもとに形成されることになっていった。交換や商業を始めたのも、その結果だ。食糧も防寒具も、必要以上に溜め込んで「過剰」を作り出し、それを一時に蕩尽することに快感を覚えるようになっていった。
 この「過剰の蕩尽」こそが、ヒトの文化制度であるパンツの基本で、拡大や成長を快感と感じさせるエネルギーを生み出した。(84)
ユダヤマルクスが生んだマルクス主義は、帝国主義者や資本家という「敵」を我々に与えてくれた。マルクス主義は哲学によって浸透したのではない。「敵を殺せ」と言って、我々の攻撃性を解放してくれたから浸透したのである。つまりは、一種の狂気である。(89-90)