チェーホフ、その人間観 −『チェーホフを楽しむために』 阿刀田高 2/3

 次の例は、人間の行動に時代の反映を見たもの。以前この本を読んだときは見落としていた。だが、社会と個人の感情は、それなりにリンクしていると感じられるようになった今読み返すと、この恋愛の描き方には説得力が感じられる。

“どうすればいったい、人目をしのんだり、嘘をついたり、べつべつの町に住んだり、長いあいだ会わずにいたりしなくてもすむだろうか。どうすればこの耐えがたい束縛から逃れることができるだろうか。
「どうすれば。どうすれば」と、彼は頭をかかえて自問するのだった。「どうすれば」
 すると、もうしばらくすれば――解決のいとぐちが見つかり、そのときこそ新しい、すばらしい生活が始まるのだという気がした。そしてふたりとも、決着までにはまだまだはるかに遠いこと、そしてなにより厄介で苦しいところへようやくさしかかったばかりだということがわかるのだった”
 と解決の方向を暗示することもなく作品はエンド・マークをつけているのだが、これもまことにチェーホフらしい。提示はするが解決をする文学ではないのだから。
 <犬をつれた奥さん>は紛うかたない恋愛小説であり、恋の成行きを訴えて間然するところがない名作だが、ここにチェーホフの生きた時代を……社会そのものがどうしようもない逼迫の中にあって、たやすい解決など望むべくもない情況を見ることもできるだろう。……<犬をつれた奥さん>については、こうした社会性を察し見ることは、まったく見当ちがいとは言えない。(159)

 最後は、名作「三人姉妹」より。マーシャが妹のイリーナに対していう言葉は、しごく当たり前のように聞こえるが、多くの人間を描いた後で発せられたものだけに、その言葉は確信めいている。

マーシャ:ふん、馬鹿ねえ、オーリャ。愛しているのよ、それが、つまり、わたしの運命なのよ。つまり、わたしのめぐりあわせなのよ……。あの人もわたしを愛してるの……。ほんとに恐ろしいことだわ。そうじゃなくって?いけないことよね。(イリーナの片手をとって、ひきよせる)ああ、かわいいイリーナ……。わたしたちはどんなふうに生涯を送るのかしらね、あとはどうなって行くのかしらね……。小説なんか読むと、なにもかも古くさいことのようで、みんなわかりきったことのような気がするけれど、いざ自分が恋してみるとわかるから。だれも、なんにもわからないんだ、めいめいが自分で自分のことを解決しなくてはならないんだって……。(247)