モーツァルト 交響曲第三十九番 変ホ長調

 モーツァルトを聴いていると、アンビヴァレントな感覚に襲われることがある。明るさのなかの不安、幸福感のなかの危うさ。
 ピエール・モントゥー指揮のモーツァルトが、一枚のCDに収められてある。作品は第三十五番(ハフナー)と第三十九番。堂々としたハフナー交響曲にくらべ、晩年に近い時期につくられた第三十九番からは、それほどの自信を感じることはない。
 吉田秀和氏は、この曲について、いくつかの文章を書いている。一つの文章では、モーツアルトの持つ「精妙さ」を、通俗的ヨハン・シュトラウス二世と比較したうえで説明している。別の文章では、この音楽が、清らかな美の中で奇妙な、荒々しいものが時々顔をのぞかせる事実を述べている。
 このような文章を読むと、第三十九番には、初期や中期の作品に比べ、よりモーツァルトその人の性格が反映されているように思えるのだ。たとえば、吉田氏は次のように書く。

 作曲家の思想を考えるならば、そうした微妙な耳をもち、大雑把な簡単な音楽をかいてすますことのできぬ人間の宿命を思わねばなるまい。モーツァルトも微妙な耳に恵まれたおかげで、ずいぶん苦しんだに相違ない。金にもならぬ音楽をかくのに、精根をすり減らさなければならなかったに相違ない。やればやれる大向こう受けのする場当たりを、みすみす不利益を覚悟で、断念したに相違ないのだ。作曲家の人生や思想は、むしろその男の耳が排泄した垢にすぎぬ。耳にひかれて、音楽家は自分の頭が空想する幸福と不幸を掴んだり、とりちがえたりして、生きてゆく……。(79-80)

 この曲が作られたのは、作曲家が三十二歳の頃。死の三年前である。そこにはまだ、ベートーヴェンシューベルトの晩年の作品のような、研ぎ澄まされた純潔さがあるわけではない。しかし、その音楽には、彼の最期がわずかに、ごくわずかにだが見え隠れしているように感じる。

モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」/第39番

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