小田野直武
司馬江漢の絵も、亜欧田田善の絵も、日本の洋風画の多くは、「遠くへの憧れ」を感じさせる、遠近感を強調させた風景画である。「洋風画を描く」ということは、「洋風画の原型が生まれた遠い国を思う」ということとも一つで、だからこそ、「遠くへの憧れ」になるのではないかなと、思うのである。(140)
月岡芳年・落合芳幾
慶応二年のこの絵は、まだ「浮世絵」のまま、「近代挿絵の最初」というところに踏み込んでいる――ある意味で、明治維新は来なくても、近代にならなくても、既にあるところでは、十分に「近代」が実現してしまっているということである。その「あるところ」が、特殊な知的階層であるならともかく、町人娯楽のど真ん中というところが、実はすごいことである。別に、国家が「近代化」を提唱しなくても、「あ、そいつは必要だ。そいつはおもしれェ」と思ったら、日本人はさっさと近代化を達成してしまうのである。(165)
歌川広重
広重の野心のなさは、その人物描写における「粘りのなさ」である。繰り返しになるが、彼には歌川流――あるいは北斎も含めた浮世絵流のしつこさ、または力感がない。・・・・・・「そこにのめり込まなければならない」というリアリティを、広重は浮世絵の画中人物に感じなかったのだ。それは、浮世絵師という職人にとっては「素人っぽい」と言うことだが、その「素人っぽさ」が≪東海道五拾三次≫では幸運になった。≪東海道五拾三次≫の主役は、人ではなく、五十三の宿駅そのものだからだ。(176)
- 作者: 橋本治
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