『ひらがな日本美術史6』 橋本治 1/2

葛飾北斎

 北斎に、規制とか自制というものはない。管理社会の江戸時代の中にいるそういう人は、「近世的」ではないだろう。なぜかと言えば、彼は「近世」という時代と調和的ではないからだ。また、彼のいた江戸時代は、「近世」という時代区分の中に収まりながらも、葛飾北斎のような異質な人間を生み出してしまう時代なのだ。だから、江戸時代は「近世」でありながら、その時代区分とは相反するようなものを持っている時代だ、ということになる。その異質が「前近代」なのである。(23)
 芝居をする大スター富士山を活かすために、その周りのものは、あまりくどい芝居をさせられなかった。だから、そこには「大スターに関心を持たない者」もいる。すべてが、主役富士山の芝居に協力して、でも、どこかでフッと息を抜いている――その息の抜け加減が、やりすぎにならず、粋なのである。その「粋さ加減」が、まだ「風景画」というコンセプトを持たず、「くどい芝居をしてしまう下界の様子」になりかねなかったものを、おとなしく「風景」という枠の中に収める。「大スター富士山の肖像画」であったればこそ、結果として「風景画」になりえたというのは、こういうややこしい仕組ゆえだろう。(52)

五渡亭(歌川)国貞

 その枷(ある決まったフォーマットの中に収まる様式)を、最大限効果的に使ったのが、文政期の国貞である。三枚の大判錦絵が横につなげられて、舞台で役者達が演じたシーンが、あたかも「実景の中のドラマ」のように再現される。しかし、人気役者というスターシステムにのっとった歌舞伎の絵では、「それぞれの人気役者」という、別箇性が必要とされる。国貞の三枚続きの絵には、焦点が三つあって、しかも、それぞれの焦点の先にいるスター達は、ストレートに衝突しない。その衝突を回避しようとする余分な力を、手の甲や足の甲に加えなければならない。そして、その「不思議な我慢」が、歌舞伎という演劇に特有の「様式表現」になる。(89)

歌川国芳

 この時期に「文化」は、武士から、そして武士と接近した上流町人から更に下って「鯔背」という言葉が似合う下級町人――労働者階級にまで及んで来た。国芳が生きたのは、その時代である。国芳を一言で言えば、「我は躍動する文化なり」である。だから、人工の舞台空間から飛び出した「武者絵」というものを創る。・・・・・・
 「美人は美人で安定させておくものだ」という常識に、国芳は揺さぶりをかける。だから、女達は、揺れる舟の上にいる――それで、こわがらない。なぜかと言えば、人間は「躍動する」という生態心理を抱えた生き物だからである。
 時代がどうあろうと、生きる人の中には、「うねる」という実感がある。その実質を捕まえそこねて、江戸という時代は終わる。(116)