『シューベルト:ザ・グレート』 ベーム

偉大な交響曲

ザ・グレート。世に出回るその通称が示す通り、歴史的に見ても極めて偉大な芸術作品であることは間違いない。しかし、私が数年前にこの作品を聴いたとき、その迫力は感じることができたが、「グレート」というタイトルやその評価から得られるような感動は、どうしても得られなかった。
昨年来、ベートーヴェンのすべての交響曲と他の作品、そしてシューベルトの先行する作品を聴き、改めてこの作品を聴くことになった。そして、この交響曲が乗りこえたもの、その偉大とされるゆえんが、少しは理解できたと思う。今回はこのことについて書いてみたい。

曲が醸し出すイメージ

この作品は表題音楽ではないが、曲を聴くと様々なイメージが表れる。
重厚なフルトヴェングラーの指揮では、難攻不落の要塞が想像されたが、ベームの指揮では、古城のイメージがうかぶ。
第一楽章は、荒野にたたずむ夜の古城の印象から始まる。戦闘機の飛行のような高らかな金管は、かつて存在した連隊の戦いの記憶だろうか。音楽は夜から、朝日に照らし出された堂々たる古城のイメージにつながる。
第二楽章では古城の内部に入っていく。有名な旋律に沿って進んでいくと、豪華な内部の装飾や、かつて舞踏会が開かれた広間に行きつく。付点のリズムの個所は、馬車をひく足音。華やかな夢の続きが奏でられる。
弦楽器の刻みが面白いスケルツォの第三楽章。再び誰もいない夜の古城。さながら亡霊たちの舞踏会のよう。
そして最終楽章。ベートーヴェンの第九に似た旋律が奏でられるが、トランペットのファンファーレにより打ち消され、堂々たるクライマックスにつながる。古城は再び朝日に照らし出され、新たな輝きを取り戻す。

デモーニッシュな芸術家

この交響曲を好きな作品としている吉田秀和氏の批評では、シューベルトはしばしばデモーニッシュな芸術家と形容される。それは、31年の短い人生の中で、特に最晩年にかけて怒涛のごとく傑作を生みだした、その創作力もさることながら、人間の感情の奥底に降りて行くような旋律をつくり上げたことにもある。
シューベルトの音楽には、日常生活の次元での意識にそって、そのまま動いていながら、同時に、もう一つ下の層の意識を呼びさます力がある。そのとき、私たちは、音楽に魅せられて眠りに入るといってもよいし、逆に、日常の世界から、もう一つ深い世界への意識に目覚めるといってもよい。どちらにせよ、同じことなのだ。それを、私は、シューベルトの音楽のデモーニッシュな性格と呼ぶ。>(吉田秀和作曲家論集2『シューベルト』)
その例として、氏は弦楽四重奏の『死と乙女』のような迫真的な表現を挙げている。
しかし、私はむしろ、晩年のピアノソナタ21番の諦念にも似た空虚な喜びの感情だとか、いくつかのピアノ曲に見られる翳りと薄明かりが交錯するような音楽の流れにそれを感じる。
そして、『ザ・グレート』の螺旋を描いて大きくなるような曲の展開にもデモーニッシュな性格は想起される。しばしば「天国的な長さ」とも言われるものであるが、悪魔的なものにしろ、天国にしろ、異境の世界に属するものを、私はこの作品から感じる。

ベートーヴェンとの決別、ロマン派への飛翔

この半年ほど、シューベルトを聴き常に感じてきたことがある。それは、どの作品の背後にもある「ベートーヴェン」の存在である。
初期の作品ほどその傾向が強いが、晩年に近づくにつれシューベルト独自の色が顔を出してくる。その経過は、偉大なる巨匠への尊敬というよりは、その作品たちとの格闘の軌跡とも思える。
そして、最晩年に作られたこの交響曲歓喜の歌に似た旋律を打ち消すファンファーレは、彼の軌跡をたどれば一層感動的なものになる。
この文章の初めに、かつて『ザ・グレート』に、思いのほか感動できなかった旨を書いた。その理由は、この曲を書き上げるまでのシューベルトの苦悩、そして彼が乗り越えようとしたベートーヴェンの偉大さに対する、私の理解が小さすぎたからなのだ。
ベートーヴェンが歩んだ道を、彼の交響曲の歴史を追いながら辿り、その方向からシューベルトを見ることで、かつてとは違う風景が見えた。
<それは、ベートーヴェンへのオマージュであると同時に、堂々たる決別宣言ともいえるもので、まさに広大な宇宙へと飛び出した「ロマン派の交響曲」は、目的地も判然としない大空間の中で、シューマンブルックナー、そしてマーラーが大暴れするようになる……というわけなのかもしれません>(金聖響玉木正之『ロマン派の交響曲』)
つぎは、シューベルトの方から次の時代の風景を見てみたい。その場所から見たロマン派の風景は、どのような色合いを帯びたものになるだろうか。

シューベルト:交響曲第8番&第9番

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