『オードリーの魅力をさぐる―真の女性らしさとは―』 レイチェル・モーズリー

2012/8/19読了
8月に衛星放送で、オードリー・ヘプバーンの映画が集中的に放映されており、改めてその魅力を感じることができた。この本は、50〜60年代に同時代でオードリーの作品を楽しんだイギリスの女性たち、90年代に過去の映画として彼女の作品を楽しんでいる、同じくイギリスの女性たちへのインタビューをとおし、オードリーの何がそれほど魅力的であるのかを分析したものである。

同時代の女優としてのオードリー

50〜60年代に作品を観た女性たちにとって、オードリーの一つの魅力は、透明感=親しみやすさであるという。透明感であるということは「何物にも属さない」と言い換えることができる。例えば、オードリーは高貴でありながら友だちのようでもあり、男の子のようなスタイルもする一方で、可憐な魅力もあるのだ。
もう一つは、作品の中のファッションである。彼女たちは、映画のファッションを楽しむだけではなく、服を自作したり、同じような靴を探したりして「オードリー・ファッション」に近づこうとした。しかし、インタビュアーである筆者は、ファッションの変化による階級の上昇、という見解を付け加える。実際にインタビュイーである彼女たちの発言からは、階級を意識したものが随所に見られる。オードリーの「変身物語」が支持される理由として、階級の上昇とファッションの変化が密接に結びついていることが挙げられる。
また、50〜60年代は女性の社会進出が進んだ時代にも重なるが、女性の役割の変化により「変身物語」が次第に難しくなっていくことも指摘される。『パリの恋人』『マイ・フェア・レディ』では、変身後のオードリーは、旧来の女性らしさを身につけた保守的なものとなってしまう。
映画の中で、そして時代により「変身」しつづけるオードリーについて、筆者は次のように述べている。

オードリーの姿は常に、安定した場所への入り口や移ろいやすい空間でとらえられる。繋留した船の上、バルコニー、階段の踊り場、あるいは玄関ホールや窓辺といったところだ。どの映画でも、そこは内でも外でもない場所だった。こうした撮影法は、オードリー・ヘップバーンがスターとしても役柄としても「いずこにも属さない」立場を雄弁に物語っている。社会的階級にかぎらず、年齢のうえでも国籍という意味でも、彼女は常に移ろいゆく中間点に存在しているのだ。(153-154)

90年代におけるオードリー

90年代の女性たちへのインタビューの内容は、私が過去の日本映画や外国映画を見るときの態度と重なる部分があり、興味深かった。
彼女たちの多くは、「映画マニア」のような部分を持っており、ある種の教養として、オードリーの映画を見ているようであった。
また、「そのときどきの気分や感情」によって、オードリーの映画を見たり見なかったりする、という意見も、たとえばシーン・メイキング機能として音楽を聴くような軽やかさを感じた。
その一方で、インタビューからは、時代の変化により映画の世界観を純粋に楽しむことができない、現代に生きる寂しさも感じとれた。

(オードリーのしぐさについて)そんなちょっとしたことが、何て言うか、とてもかっこいいですよね。でも自分ではできないし、絶対にやらない。やってみようとも思わないわ。だってあれは意識してやったことじゃないもの……。私の言いたいことがわかってもらえる?あれはただ、結果としてそうなっただけで、意識してやっていたなら、ちっともおもしろくなかったでしょう。(181)

このレトロな気分に満ちた楽しみは、明らかにポストモダンの時代における「過去のスタイルの模倣」である。……「私はそれがトレンディだから注目しているわけじゃなくて、ほんとに父のレコードを聴くのが好きだったんです」。カリィ自身はあとでこうした趣味は「単にうわべだけのこと」とも言っていたが、私はそうは思わなかった。彼女たちはドレスアップすること自体に関心をもっていて、単なるパフォーマンスとしてだけでなく、華麗に装うことを楽しみ、それによってある意味で、伝統的な女らしさを追求しようとしているのではないだろうか。(189)

過去の芸術にふれる態度とは

90年代の女性たちのインタビューは、映画にかぎらず、「古典」と言われるほど古くはない過去の作品(音楽、写真、服飾…)にふれる難しさを物語っている。
過去の芸術作品は、それらが「再発見」されて流行となったり、サブカルチャーにとりこまれてしまった時点で、私たちそれらを純粋に楽しむことができなくなる。私たちは教養として、ファッションとして、「あえて」純粋に、という態度で接することになる。
しかし、50〜60年代の女性たちのインタビューからも判るとおり、同時代の彼女たちも作品を完全に、純粋に、観ていたわけではない。そこには意識的にしろ、無意識的にしろ「階級」などに対する批評的なまなざしがある。
オードリーの魅力を堪能するだけでも、映画は十分楽しい。しかし、作品を観るに際し、過去の人々の見方を意識すること、あるいは自分の見方に意識的になること。「純粋でない」私たちが、より豊かに作品を味わうヒントがここにある。

オードリーの魅力をさぐる―真の女性らしさとは

オードリーの魅力をさぐる―真の女性らしさとは