ネーションと美学/柄谷行人

2007/9/2-9/23

超自我の強化としてのワイマール体制

「ワイマール体制は、前期フロイト的な観点から見れば、連合軍=戦勝国たちが、敗戦国ドイツに課した抑圧を内面化した装置だということになるだろう。ドイツ民族を去勢したのは連合軍であり、その背後にユダヤ人がいる、というナチスの宣伝がアピールしたのは、そのような観点からである。しかし、フロイトは、いかに居心地が悪いにせよ、「文化」=超自我が強まることを肯定しようとした。彼の考えでは、攻撃欲動を抑制するのは、外的なものではなく、攻撃欲動それ自体である。彼は、そのように考えることで、ワイマール体制を維持すべき必要を説こうとしたのである。それにしても、超自我、そして、文化の意味を根本的に変えてしまうような転回をフロイトに迫ったのは、戦争が終わっても、毎夜、戦争を反復している患者たちであった、ということに注目すべきである。フロイトはこう考えた。個人としての神経症からは癒えるべきである。しかし、「文化」としての神経症からは癒える必要はない、と。」(88)

攻撃性の反転としての超自我

戦後の日本人が持つ罪悪感は、アメリカの策略やアジア諸国の非難によるものではない。それは、そのような「外」なしにありえないとしても「内」から来るものなしには持続(反復脅迫)しない。したがって、「罪悪感」は攻撃性の質や量では加減されず、弁償によっても解消できない。なぜならば、それは反省意識ではなく超自我としてあり、病ではなく「文化」であるからだ。
「このような超自我を持たない「ノーマル」な国家(国民)は数多くある。たとえばアメリカはヴェトナム戦争のあとに一時的に「罪悪感」をもったが、一九九一年の湾岸戦争で「病」から回復した。だが、それによって、アメリカ国民が「健康」な状態に戻ったといえるだろうか。それは別の――資本と国家が強いる――に従属しているだけである。」(125)
他、訓読みの使用による日本人の「去勢の排除」(象徴界に入りながら、同時に入っていない)等の言及がある。