ものぐさ精神分析/岸田透

2006/11/11読了
「和魂洋才とは外面と内面とを使いわけるということである。(中略)ある危機的状況にあって、外面と内面との使いわけというこの防衛機能を用いることが、精神の分裂をもたらすのである。」(19)
「人格の統一性の裏づけを欠いた精神分裂病的なある傾向は、つねにそれと正反対の傾向と背中合わせになっている(日本軍兵士の勇敢さと卑屈さの叙述)」(29)
エスは本能ではない。快楽原則は本能の原則ではない。それはむしろ、幻想の原則である。つねに過去の状態の復元を求めるというフロイドの衝動の定義は、幻想の世界に釘づけになった本能の定義としてのみ理解できる」(55)
「集団と個人は共同幻想を介してつながっている。集団を支えているのも、個人を支えているのも共同幻想である。集団の共同幻想は、個人の私的幻想の共同化としてしか成立し得ず、個人はその私的幻想を共同化することによってしか個人となり得ない。したがって、集団の共同幻想は、個人の共同幻想の集団化された部分(超自我および自我)と一致する。そして、共同化されなかった部分(エス)は、集団を構成する個人のあいだで大体共通している。そこで、各人のエスは、集団の中で、忌まわしいもの、おおっぴらには言えないもの、罪深いもの等々を形づくる。」(73)
「さて、自分一個の利害を捨てて、相手のために、共通の目的のために尽くすのが恋愛の一要素だという点で二人の見解が一致するなら、おのおのさまざまな私的幻想、身勝手な欲望にこの形式を彫りこまねばならない。この形式と矛盾する要素を洗い落とし、あるいは何とかこの形式の中でそれを満足させる方法を見出さねばならない。これがフロイトが昇華と呼んだ作業である。」(181)
「過去が過去として充足し、現在が現在として充足しているならば、時間は不必要かつ不可能である。そうでないがゆえにわれわれは、犯行現場に必ず立ち戻ると言われる犯人のように、多かれ少なかれ過去に釘付けになっていて、つねに過去をもう一度やり直したがっており、そして、過去をもう一度やり直すチャンスが得られるかもしれない時点として、未来という時点を設定したのである。」(221)