ロリータ/エイドリアン・ライン

2007/7/28
以前原作を読んだことがあったが、内容の確認も兼ねてこの映画を鑑賞した。

「夢のアメリカ」

ナボコフ短編全集Ⅱ』のあとがきに「夢のアメリカ」という言葉が出てくる。これはナボコフがいくつかの短編の中に用いているイメージであり、のちの『ロリータ』にも引き継がれる、というものであったが、具体的な説明はされていなかった。しかし、「夢のアメリカ」という言葉から察するに、それは高度な消費社会化がもたらした豊かなイメージ、大きな家や電化製品、ラジオ放送に象徴される、旧弊なヨーロッパから見た現代社会のイメージであろう。
この映画では、ストーリーも面白く見られたが、私はこの「夢のアメリカ」の意匠に目が行ってしまった。例えば物語前半に出てくるロリータの家、車、また林間学校の様子。これらの物質文明の成果たるものが、ある種の瑞々しい懐かしさを持って描かれてあった。
以前原作を読んだときも、この印象を味わうことができた。それは私にとって、原作を読んだ喫茶店で流れていたアンドレ・ギャニオン風の音楽や、『おもいでの夏』の映像とともに感じることのできる、甘く気だるい、そしてどこか退廃的なものである。
私は、個人的にこの種の「懐かしさ」を好んでいる。そして、それが的確に伝わってきただけでも、この映画は一つの成功を収めているのではないかと思う。
「私は彼女を見つめた。これまでに想像し渇望した以上に――死ぬほど彼女を愛していることを知った。かつて愛した小悪魔の面影は失せていた。だが私のロリータだ。顔色が悪く、他人の子を宿している…醜い姿でも構わない。その顔を見るだけで私は――愛しさにおかしくなりそうだった。」(1:58)