コンテンツの思想/東浩紀

2007/7/23-7/29

ノルウェイの森』の意義

「『世界の終わり』は、まさにこの『ノルウェイの森』を準備した作品だと思います。あれは、要するに、僕は脳内世界でオッケーだから現実には戻りません、という話ですからね。
その態度は新海さんの映像の走馬燈的特長とも通じている。美しい旋律とともに、美しい記憶だけがカットアンドペーストされて映像が作られれば、それはとても美しい話になる。こういう方法は、今までの文学では過去の捏造として批判されていたわけです。ところが、村上の小説も新海さんの映像も、世界から切れたところで展開されている。だからどれだけ美学化してもいい。そういう迫力がある。(中略)
だから、『ノルウェイの森』はもはや過去の正当化ですらない。ただやってみた、というだけのものなんです。人生ってそういうものでしょ、という。村上春樹はそういう文学の受容を生み出したんだと思う。彼は物語の機能を変えてしまった。」(74-75)

現代の戦争のリアル

「だから、旧来の意味ではけっして政治的なものではないんだけど、それはいまや実質的な政治的効果を生み出しはじめていて、そこにねじれが出ている。嫌韓厨がネットで噴き上がっていれば、それを『正論』のような保守論壇誌が取り上げ、一部の議員が喜ぶという回路はもう現実なわけです。そしてここに自爆テロのような現象が起これば、一気に嫌韓のような極端な言説が国中に広がってしまう。それがいまの戦争のリアルなのではないか。それはもう、国が国として、たとえば日本が国益をしっかりと考えて、国民のそれを支持して、その結果朝鮮半島や大陸と戦争するという構図とは違っている。単純に言えば、「笑い男」のような現象がそのまま戦争につながっちゃうという回路の存在こそが、二一世紀の政治的現実なんだと思う。」(95)

キャラクター小説とポストモダンの倫理

「おそらく、ライトノベルがキャラを立てることに集中化しているのは、現実解釈の枠組みが多数化して、コミュニケーションの島宇宙化が進んでいる今、必然なんです。そこでは作者は、読者がその固有名を使って、どんな物語を勝手に紡いでもいいやとあきらめている。それは近代文学の基準からすれば幼稚にしか見えないけれど、実はその背後には、僕たちは物語は共有できないけど、キャラクターは共有できるという薄い信頼感が張りめぐらされている。それは、大袈裟に言えば、ポストモダンの倫理だと言えないこともない。キャラクター小説をめぐる議論は、そこまで拡がる可能性を秘めていると思います。」(199)