『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 2/7

第1章 パフォーマンス

あるルーティーンがどれだけ専門化した独自のものであっても、その社会的な外面については、特定の例外的なケースを除けば、あれ程度異なるほかのルーティーンについても同様の主張や言明が行えるような事実が主張される傾向にある。……ロンドンでは近年、煙突掃除人や香水店の店員が実験室用の白衣を着用する傾向にあるが、……繊細で心づかいを要するものであり、標準化され、臨床的で、プライバシーを大切にするやり方でとり行われているという理解を与えがちである。(50)
私たちは、さらに、広報コンサルタントがなぜテレビの修理工に、修理が終わったときに受像機に戻せなかったねじは自分が持ってきたねじのそばに並べて置くように、そうすれば戻せなかったパーツが与える望ましくない印象を回避できるから、と助言するのかを理解する用意もなくてはならない。言い換えれば、私たちは、あるパフォーマンスがオーディエンスに抱かせた現実についての印象を、ほんのちょっとした不運な出来事によって粉々になりかねないデリケートで壊れやすいものとして理解する用意がなくてはならない。(94)
作り出された印象が本物か偽物かを問うとき、私たちが本当に問いたいのは往々にしてそのパフォーマーが当該のパフォーマンスを演じる権限を与えられているかどうかなのであって、実際のパフォーマンスそのものは主要な関心の対象ではない。……逆説的であるが、詐称者のパフォーマンスが本物に近づくにつれて、私たちへの脅威はより強いものになる。なぜなら、のちに詐称者であるとわかることになる人物が優れたパフォーマンスをするとすれば、ある役を演じてよいという正当化された許可とそれを演じる能力との道徳的な結びつきが、私たちの心のなかで弱められる可能性があるからだ。(100)
よい舞台俳優になるにはたしかに、底深い技能、長期の訓練、そして心理的な能力が必要だ。しかしこに事実のために、別の事実から目を背けることになっていはいけない。ほとんどだれもが台本を手っ取り早く覚えて、寛容なオーディエンス相手に企てられたパフォーマンスを、何らかの意味での現実感を与えるのに十分な程度に演じることができる。それは、日常の社会的相互行為自体が、演劇的に誇張された行為やそれへの反応、終結を示す返答といったものの交換によって、一つの場面として作り上げられているからだ。生活自体が劇のように上演されるものであるから、脚本は未熟な演技者が演じても生気を吹き込まれる。(119)
アメリカの中流階級若い女性のふるまいについて)しかし、彼女自身や彼女のボーイフレンドと同じように、私たちはパフォーマンス以前の事実として、このパフォーマーが若いアメリカの中流階級の女子であるという事実を受け入れている。……ある種の人間であるということは、単に必要な属性を持つだけではなく、同時に、自分が属する社会的集合体と結びつけられた行動と見かけの基準を充たしつづけるということでもある。(124)