モーツアルトのピアノソナタ

フリードリヒ・グルダ

 そういう軽く明るい音に加えるのに、グルダは、非の打ちどころのない技術の卓越の上に、非常によく流れるが、控え目でインティメントな音楽を作る。これは、告白型または激情型のダイナミズムとは違い、羞恥に満ちたといってもよいくらいに誇張を避けた、根本的にクラシックな≪歌の音楽≫である。明澄な歌。そこで大切なのは旋律を歌わすだけではなく、リズムの鋭敏さであり、それこそグルダの特性である、と私には思われる。以上がわかってくるとグルダハ長調ソナタで行っている即興的装飾は露出狂的わがままとはまったく正反対の、モーツァルト的源泉から流出したものと納得がゆく。一口でいえば、彼の装飾は精神においても技法においてもまったくモーツァルトを裏切らない。(吉田秀和モーツァルト』(158))

ヴィルヘルム・バックハウス

 バックハウスは、以上の手法上の特異性(ペダルのさかんな使用、テンポの変化、ディナミークの扱い)を作品の構成の論理と照応させて使っている。それはひと口に言えば、ソナタ形式に集約されて表されている、いわゆるヴィーン古典派の音楽的思考の体質とでもいうべきものに、ぴったり一致してくるのである。そうして、これこそ、ハイドンモーツァルトベートーヴェンと連続して継承発展させられ、シューベルトブラームスらにも流入していった、あの比類なく輝かしい音楽の系譜の基本を支える論理なのである。これは音楽史の知識の上でそうなるというのではなくて、むしろ、音楽家バックハウスの在り方の根本が、ここから生まれ、ここに育ち、大成したという事実の逆の証明でもある。(170)

グレン・グールド

 モーツァルトは、なぜ、こんなにも私たちを惹きつけるのか?……≪形≫があるからだとつけ加えさせて頂こうと思う。私たちが、もし彼に、二十世紀のモーツァルト観の急所である≪デモーニッシュなもの≫を認められるとすれば、それは、≪形の偏在≫があってのことであり、それだから、普通ロマン派にみとめるのとはまるでちがう≪危機≫と≪調和≫の共存を認知する能力が、私たちの中で目覚めるのである。
 K二八一、つまり第三番のソナタは、普通、このころのモーツァルトの曲中、もっとも純粋にロココ的な香りの高い様式の作品と呼ばれているものである。ほかの誰よりもロココ的で、しかも、危機的な演奏。それに、私たちはこのレコードで接することができる。それにほかの曲でも、自発性と幻想的な破格と規律の高さのスリリングな対決がきかれる。(149)
※この文章は、吉田氏がグールドのモーツァルトをそれほど聴く前に書かれたものである。文章のなかでは、モーツァルトのピアノ演奏を論じるのはもう少し待ったほうが良い旨が書かれている。しかし、『世界のピアニスト』のグールドの章を見ても、モーツァルトに関した内容はほとんど収録されていなかった。

モーツァルト・リサイタル

モーツァルト・リサイタル