小林秀雄氏のモオツァルト論は、確かに格好いい。こんな切れ味の良いクラシック評論は、なかなかお目にかかれるものではない。
だが、同時に、モーツァルトとは、そのような重厚な論じ方をされるべき作曲家なのだろうかとも思うのだ。その音楽は、もう少し軽やかで、優美なものであるはずなのだ。
もちろん、それは小林氏は百も承知であったに違いない。それでは、なぜモーツァルトの音楽を、人生訓のような思想にまで繋げてしまうのか。その答えは「そのような時代だったから」だと私には思える。小林秀雄ですら逃れることが難しい、時代のパラダイムがあるのだ。
仮に、吉田氏が小林氏のモーツァルト論に違和感を感じていたとしたら、それは「疾走する悲しみ」という一言だけではないだろう。そのフレーズは、先にのべたように、論文にほんの少し現われるだけなのだから。むしろその違和感は、その音楽に一人の人間の生き様まで見いだしてしまうような、当時のモーツァルトの需要のされ方に対して、感じたものではなかっただろうか?
常に楽譜に立ち戻り、激情に陥らない吉田氏に文体には、小林氏の「熱さ」に対抗するような、戦略的な中庸さすら、感じることもできるのだ。そして、そのような語り方こそモーツァルトにはふさわしいものなのだろう。
しかし、私は、叫んではいけない。モーツァルトのように充実した芸術家のことを考えるのに、何の叫ぶことが必要だろう。むしろ必要なのは、ソット・ヴォーチェで語ることだ。(44)
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