こちらは、星に照らされた夜の風景の描写。著者の文章には、ときおり、夜の街や自然を扱ったものが見られる。ここでは、星は魅力ある背景となる。
こういう風が止むと、まだ午後であるのに、空は冴えた水浅黄に染まって、魂を吸いこみそうに深い。そして西山も盆地も暮れきってからしばらく、東の富士だけがその形の紫水晶の色に凝って、寒ざむと高く聳えている。
木枯らしや 暮れぬに空の 水あさぎ
やがて来る寒星をちりばめた夜は、山国のみのものである。もし富士の東に月があれば、その光の面は銀汁を流したように輝き、蔭はよごれた石膏のようにぼやけて見える。そして西の雪の連峰はおぼろ銀に浮き出て、中に駒ケ岳の白薙は、銀の滝でも懸けたように輝いている。 ―『甲斐ヶ根颪』12月17日―
また、次の幾何学的な表現も面白い。そして、その数学的な視点の背景に、天空の神秘や美を見ているのも、氏の文章らしいと思える。
もちろん、この大小二つのヒシャクの形は、平面に宝石をセットして造ったようなのとは違う。と言って、等しい距離で空間に浮いている星々でもない。みな距離を異にして、北斗では柄のはしの7は光が私たちの眼にとどくに六百五十年を要するが、6は八十年、5と4は共に六十年、3は九十年、2は六十年、1は七十年である。だから大小のヒシャクといっても、共に偶然の見かけに過ぎない、とすれば、何という驚くべき偶然だろう。しかも大小相似の形を抱きあわせているとは!私はどうも偶然では割りきれないのである。 ―『北斗美学』3月6日―
最後に、氏の星に対する思いが凝縮された文章を引用する。このような総括的な文章は、私は本来あまり好きではないのだが、表現がロマンティックで、儚さを感じさせるところもあり、少し悲しい気分の時に読みたい文章だと思う。
自分のことを言えば、少年のころふと星に親しんでから、六十余年はいつの間にか過ぎてしまったが、人生行路の険しい山坂を登りつ降りつする道伴れに、いつも星がいないことはなかった。夜はもとより、眼を閉じれば昼もである。そして、こちらに求める心さえあれば、星ほど雄弁なものはない。大自然に共通な言葉――光と瞬きとで、いつも話しかけてくれる。さらには、先立った愛するもの、生涯会えない愛するものの眼をのぞかせ、ささやきをも聞かせてくれる。
「独りきりになりたい者には、星を見させておけ」とエマースンは言った。私は死んで独りになっても、星は見ていられそうな気がする。少くもあちらが見ていてくれることは間違いがない。 ―『星に酔うもの』12月19日―
他に、『道明寺』10月8日、『星月夜』12月1日、『山市初買』1月2日、『血紅星』2月6日、『朧月夜』4月14日等が好きになれた作品だった。
まだ夜が暗かったころの風景。どこか永遠を感じさせる空の風景。
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