『悲しき熱帯Ⅰ』 レヴィ=ストロース 2/2

恐ろしく、美しいレヴィ=ストロースの理論

このように、本の中にちりばめられた思想の中で、もっとも恐ろしい理論、そして非常に美しい理論があります。それらは、失礼を承知でいえば、まるで芸術作品としての哲学ともいえるようなものです。
まずは、もっとも恐ろしい理論から。それは、インドのカーストにおける不可触民のはっせいと、ナチス・ドイツホロコーストを、人口動態との関連から同一の問題として考える、というものです。

人間が彼らの地理的・社会的・知的空間の中で窮屈に感じ始めたとき、一つの単純な解決策が人間を誘惑する怖れがある。その解決策は、人間という種の一部に人間性を認めないということに存している。何十年かのあいだは、それ以外の物たちは好き勝手に振舞えるだろう。それからまた、新しい追放に取り掛からなければなるまい。こうした展望のもとでは、ヨーロッパが二十年来(一九三五〜一九五五)、その舞台になってきた一連の出来事――それはヨーロッパの人口が二倍になった過去一世紀を要約している――は、私にはもはや一民族、一政策、一集団の錯誤の結果とは思えないのである。……その進化は、南アジアが一千年か二千年、われわれより早く経験したものであり、われわれも余程の決意をしない限り、おそらくそこから逃れられないだろうとおもわれるものなのである。

そして、非常に美しい理論。著者が訪れたグアナ族とボロロ族は、社会構造の矛盾を、半族をもつという制度で解決した(あるいはそう見せかけていた)。しかし、あとからこの地に住みついたムバヤ族は、この方法をとらない。
グアナ族やボロロ族の社会構造と、ムバヤ族の顔面装飾は、類似した構造を持っている。レヴィ=ストロースによれば、それはこういうことである。

ムバヤ族は、この救済法を意識することも、それを生活の中に取り入れることもできないままに、それを夢みることを始めたのだ。彼らの習俗の先例に反するような直接的な形ではなく、移し変えられた形で。無害な外見を装って、すなわち彼らの芸術においてである。もしこの分析が正しいとすれば、社会の利害や迷信が妨げさえしなければ実現できたはずの諸制度を象徴的に表わす方法を、飽くことのない情熱で探し求める一社会の幻覚として、最終的にはカデュヴェオ族の女の絵画芸術を解釈し、その芸術の神秘な魅惑や、一見何の根拠もないように思われるその錯綜ぶりを説明すべきであろう。素晴らしい文明ではないか、そのクィーンたちは化粧で夢を囲むのだ。

時の経過による記憶の結晶化

これまで引用した、レヴィ=ストロースの理論以外に、もうひとつこころに残る箇所がありました。それは、著者がブラジルを訪ねた二十年後に、ようやくこの紀行を書くにいたった経緯をのべた部分です。

だが一体、歳月が流れたという以外、何が起こったというのか。満ちて来る忘却の潮の中で私が思い出を転がしているあいだ、忘却は想い出をすり減らし、埋め隠す以上の働きをしたようだ。……種々様々な時代と地域から取って来た、一見何の連関もない出来事が、一方が他の上に重なり合い、私の物語よりももっと賢い、どこかの建築家が設計を考え抜いた、城にも似たものの姿で、突然位置を定めてしまう。……古びた体験と私が差向いになれるのに、二十年の忘却が必要であった。地の果てまでこの体験を追い求めて行きながら、かつての私にはその意味が掴めず、それに親しみを覚えることもなかったのだ。

過去の旅や人生の記憶が、時の経過により意味を帯びはじめる。レヴィ=ストロースの体験の足元にも及びませんが、かつての自分の記憶が思いがけない意味を持ち出すことが、将来あるとすれば、それはひとつの希望ととらえることができるでしょう。