A PROPOS DE PARIS/アンリ・カルティエ=ブレッソン

カルティエブレッソンのエッセイ集には、レス枢機卿によることばが引用されている。――この世に決定的瞬間を持たないものはない。
1930年代〜70年代のパリを撮影したこの写真集を、これほど適切にあらわす表現も珍しいだろう。
写真集には、パリにおける人々や街の生きざまが印象的に収められている。そこには、必ずしも記号的にパリを表わす表象があるわけではない。むしろ、生活のひとコマ、一見何でもないような写真が数多く並べられている。
しかし、抽象度の高いモノクロで撮られたその瞬間は美であり、幾何であるのだ。つまり、幾何学的な美しさで捉えられた一瞬に、人生が輝きを帯びる奇跡のような瞬間。それこそが、枢機卿の言う「決定的瞬間」なのだろう。

構図への完璧主義

カルティエブレッソンを特徴づけるもののひとつとして、美しい構図が挙げられる。それは、彼がロートのアトリエで絵を学んでいた際に、師より叩きこまれたのもであった。

ロートの言葉のひとつひとつが、二十歳のアンリに強烈な印象をのこした。ロートの講義を聴いて周囲を見渡せば、一見混沌としている自然界には、多くの美しいものがあって、そこには決まってある秩序が見出され、確かな構図がみてとれた。画家たるものは、なによりもまずこの隠された構図をつかまえる必要があった。(『アンリ・カルティエ=ブレッソン伝』柏倉康夫)

彼の構図に対する完璧主義は、次のような態度にも表わされる。

構図が見て取れない対象を前にした場合は、それがいかにジャーナリスティックな対象であっても、彼はシャッターを切らなかった。それほど構図は、現実世界の本質をなす要素と考えられたのである。(同上)

撮影の方法

写真集を観ると、ほとんどの写真に人物が写されており、しかもその多くがかなり大きく写っていることが分かる。それが、彼の写真に生き生きとした魅力を与えているのだが、このとり方を今の時代に行うことは難しい。

カルティエブレッソンが実際に撮影している現場を撮った短いムービー映像を観たことがある。彼はライカを背中にかくして被写体に近づくと、一瞬カメラを構えてシャッターを切り、すぐにまたカメラをかくした。(同上)

写真には、かなり至近距離から撮っていると思われるものもある。だまし撮りのような彼の撮影を真似ることはできないが、このことが、現代のスナップ写真とは違う新鮮な見た目を、彼の写真に与えていることも事実だろう。

美を見いだす技術

機械製品であるカメラを使いこなすにあたって、カルティエブレッソンは技術を重視していた。自分にあったカメラを身体になじませたうえで、すぐれた写真に必要な要素を、次のように述べる。

私にとって、内容はフォルムと切り離せない。ここでいうフォルムとは、それによって私たちの理解と感動が具体的に伝達できるようになる、刻々と変化するものの絶対的で唯一無二の配置のことだ。そして写真にそれを写すことができるのは、その変化に同調するほど柔軟なリズムから生れる直感だけだ。(『こころの眼 写真をめぐるエセー』アンリ・カルティエ=ブレッソン

セザンヌカルティエブレッソン

ここ2カ月ほど、カルティエブレッソンについて学んできたが、常に頭の中にあったのは、セザンヌのことであった。
両者とも、作品の主題として、伝統的な主題や、もの珍しい主題を選んでいたわけではない。むしろ、その描写方法、表現技術により、日常の形態のなかに「美」を見いだす。
そのような視点で世界を捉えれば、確かに「この世に決定的瞬間を持たないものはない」。
それは、あくまで職業人であったカルティエブレッソンの仕事に対する態度であり、倫理でもあったのだろう。

A Propos de Paris

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