『グレート・ギャツビー』 フィッツジェラルド

2011/2/3読了

ギャツビーのところに行って別れの挨拶をしたとき、彼の顔に困惑の色が戻っていることが見て取れた。今ここにある幸福をそのまま真に受けていいものか、微かな疑念が生じたらしい。なにしろ五年近くの歳月が経過しているのだ!デイジーが彼の夢に追いつけないという事態は、その午後にだって幾度も生じたに違いない。しかしそのことでデイジーを責めるのは酷というものだ。結局のところ、彼の幻想の持つ活力があまりにも並み外れたものだったのだ。それはデイジーを既に凌駕していたし、あらゆるものを凌駕してしまっていた……(177-178)

そこに座って、知られざる旧き世界について思いを馳せながら、デイジーの桟橋の先端に緑色の灯火を見つけたときのギャツビーの驚きを、僕は想像した。彼は長い道のりをたどって、この青々とした芝生にようやくたどり着いたのだ。夢はすぐ手の届くところまで近づいているように見えたし、それをつかみ損ねるかもしれないなんて、思いも寄らなかったはずだ。その夢がもう彼の背後に、あの都市の外枠に広がる茫漠たる人知れぬ場所に――共和国の平野が夜の帳の下でどこまでも黒々と連なりゆくあたりへと――移ろい去ってしまったことが、ギャツビーにはわからなかったのだ。
ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(325-326)

この小説、特に引用した部分を読み「夢の時間」をいう言葉を思い出した。物語はギャツビーが持つ「夢の時間」を否定する展開をたどる。しかし、作者はその時間を信じ、希望が宿るものと見なしているように受けとめられる。
ギャツビーがつくり上げたその時間は、自身の想像力なかで、周囲と共有不可能なまでに肥大化していた。しかし、「夢の時間」がもつ強度は、荒唐無稽なもの、ジャンクなものであればこそ、発揮させられるのではないか。
現実に対抗するだけの強さを想像力が持つとすれば、その価値は、感染力のある肥大な夢を、いかに紡ぎだせるかにあるのではないだろうか。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)