『抽象の力』岡崎乾二郎 3/3

芸術と文明

防災と国防のパラドックス

寺田寅彦にとって自然の変化は不可避である。その変化は必然であって、そうである限り決して予期せざる惨事とはなりえない。災害とは、人間の認識そして、それに基づく制度が、その変化への対応を間違えるゆえに引き起こされる。すなわち災害とは、自然の変化を許容せず、人間の認識に合わせた制度、形態として自然を固定しようとしたことによって、もたらされる惨事にほかならない。無理に固定された制度や形態が崩れるのは当然のごとく必然である。
制度が統制し固定しようとする領域が大規模になればなるほど、その被害は大きくなる。防災という概念に含まれる、このパラドックスはさまざまに分散した関心、感覚、出自を持った人民を一つの国民として組織しようとする国民国家のあり方にもそのまま含まれるだろうパラドックスでもあった。すなわち寺田は「国防」つまり戦争を防ぐという名目で行なわれる国家統制のあり方をも、防災という概念のパラドックスを指摘することを通して批判していたわけである。国防という概念こそが、戦争を必至とし、戦争を生み出す原因ともなる。(240)

絶対時間、絶対空間という概念の誤り

おそらく量子力学を含めて二〇世紀の物理学が、芸術そして哲学に与えた重要なヒントは、いままで対象、運動が、必ず位置づけられ書き込まれなければならなかった時間、空間という普遍の(と思われた)枠組みが可塑的、可変的なものへ転換されてしまったことにある。物質はもはや絶対空間にも時間にも基礎づけられない。物質の振る舞い、位置を確定的に観測することは不可能であり、確定的に記述することもできない。反対に物質とその振る舞いこそが空間と時間という観念(そしてそれを必要とす観察者の主体)を仮設する。(301)

言語を道具のひとつとみなすこと

『時のかたち』の書き出しとして有名な「芸術という概念を人間の作ったもの――役に立たないもの、美しいもの、詩的な事物に加えて、すべての道具、書かれたものまで含む――すべての領域にまで拡張してみよう。」というテーゼは、美術作品を道具一般と並置する企てということよりも、すべてを記述するという位置づけにおいて通常は高次なものとみなされている言語をも、道具一般と同じ平面に並置していることにこそ最大の特徴がある。クプラ―は慎重に、言語活動一般ではなく、書かれたもの=writingに限定し、それが事物であることにおいて、道具と同じだとする。反対にいえば、人間の作ったあらゆる事物も言語として書かれたものと同等に、それ自身を律し、再生させうる文法を備えているということである。(401-402)

抽象の力 (近代芸術の解析)

抽象の力 (近代芸術の解析)

『抽象の力』岡崎乾二郎 2/3

制作や鑑賞のプロセスを芸術とすること

芸術的経験

ヴァネッサ・ベルは平面的な模様(パターン)がそれだけで対象として芸術的な質を持つとは考えていない。彼女は平面的な模様に見えたものが運動(すなわち移行)し、視点が誘導され奥行き、空間を作りだすこと、その動的な過程こそが美的感動を与える、芸術的経験なのだといっている。つまり芸術は視覚的対象ではない。対象とそれに対する人間の変化それ自体なのだ。……言い換えれば抽象であれ、それが芸術的な質として具体的な働きかけを行う力があるなら、それはやがて具体物となる。逆にそれが起こらないならば、いかなる具象だろうと装飾だろうと抽象だろうと芸術的感動は呼ばない。(164)

現代版画

(内間安瑆の『フォレスト・ビョウブ・ウィズ・ブーケット』について)版画が仕上がってしまえば、今度は見る人間がそれを見る目のチャンネル(版)を変えていく番である。色相や明暗などの視線を仕切るフィルターを変化させていく度に内間の版画は異なる様相を発する。人が見る行為に応じ、次々と変容する色彩の豊饒さ、空間の多様さはまさに自然そのものを観察している現象と同様である。彼の版画が一つのヴィジョンを押しつけることはない。それはあらゆる視点にも対応して答えを発する。そのチャンネルの切り替えを受けとめるものこそ、内間が「空気を入れた」という版と版の間である。(227-228)

自然現象

中谷宇吉郎の雪、中谷芙二子の霧について)霧に神秘はない。曖昧なのは、われわれ人間がそこに見出そうと欲するオブジェクトという概念自体である。霧はたしかに人が抱く、さまざまな観念(あるいは幻想)と、その不確かさを露呈させる。だからこそ、その曖昧さに溺れるのではなく、霧こそを、霧を形づくる無数の粒子の作り出す軽快な運動こそ明視しなければならない。そして、霧(に投影した自らの幻想、観念)に惑わされ視界を曇らせているわれわれの目こそを、晴らさなければならない。(252)

三位一体とエネルゲイア

(三位一体について)ヘシュカスムではこう考える。一つであることはエネルゲイア=働き、活動である。働きは働きの中だけで把握されるのであって、対象としては認識されない。たとえば、y=f(x)という回路において、認識されるのは、x、yで価として現れる数だけである。回路そのものはブラックボックスであり、すなわちそれは暗闇に閉ざされている。この場合、x、yがペルソナであり、回路の働きがエネルゲイアとなる。神の本質とはこの回路=函数の働きそのものである。それを認識することは、この回路の働きに祈ることで一体化すること、この変換過程=エネルゲイアの流れとして自ら身を投じることである。光は見るものではない。光とはエネルゲイアであり、祈るとはそのエネルゲイアの流れに一体化し、光を自らの内部に感じることだ。(365)

『抽象の力』岡崎乾二郎 1/3

 昨年ベストセラーとなったこの本。といっても、さくさく読める、というわけではない。
 内容的には、「現代の芸術運動は本来どのようなことを目指したか」「完成した作品ではなく制作や鑑賞のプロセスを芸術とすること」「芸術と文明」という三つのテーマが、作品や作家論に沿って述べられている。
 これらのテーマを述べる中で、海外の作家の作品と日本人の作家の作品の類似性を比較しつつも、それは影響関係というより、同じ芸術的課題が同時代的に、全世界的に存在した証左であるという主張が見られる。

現代の芸術運動は本来何を目指したか?

キュビズム

キュビズムは対象の見かけ(のそのものらしさ)の再現、つまり視覚への依存から絵画を離し(キュビズムが放棄したのは事物の見慣れた形=区切られた形であり、対象を特徴づけているとみなされていた固有な色彩である)、それらによらず、より直接的、具体的そしてリアルに対象を把握することを目指したのである。(12)

ダダ

何かを何かが代表することへの反対(芸術作品による代表も含め)こそが、ダダの思想である。ダダは日常生活のこまごました雑音、とりとめのない人の行動、どうでもいいような小さな生産物に注目した。それは権威や権力を代表し表現するモニュメンタルな「大芸術」ではなく、日々の暮らしを形作る「小芸術」≒工芸を重視する。そして工芸つまり道具とは、身体の各部分が意識の中枢的な支配を逃れ、行為ごとに、無意識的にそれらと共同作業を行うものなのだ。(42-43)

円と正方形、アール・コンクレ

アール・コンクレのマニフェストは「具体」というコンセプトを、現実にいっさい参照(模倣)するものを持たず、シンボルも詩情も物語性もいっさい媒介せず、直接精神に働きかけることにあると定義している。芸術は精神に直接、フィジカルに作用する機械、道具だというわけである。(86)

シュルレアリスム

古賀春江が批判しようとしたのは、シュルレアリスムをただ、自我の持つ(いまだ非現実な)欲動を、つまり自我の空想を現実に拡張しようとする運動とみなす一般的な理解である。なぜならもともと「自我(こそ)は現実の世界である」のだから。古賀にとってシュルレアリスムとはむしろ、この自我を消滅させる機構=死の欲動そのものを発動させる方法論であるべきだった。(209)

構成主義

構成主義的なデザインとは何だったのか。ひとことでいえば新しいテクノロジーの表現であり、そのテクノロジーが実現した、全く新しい空間知覚を表現することである。飛行が与える空間の新しさとは、そこに上下左右の方向感覚を確定している大地という基底面が存在しないこともある。飛行機は宙返りも急降下も反転もし、また相対する別の飛行機も同じく上下左右の空間軸を絶えず変化させる。雑誌『FRONT』は、流動的な視点の変化を演出するために、頁はときに二段に分割、切断され、一冊の雑誌が二つの別の雑誌になって異なる頁進行で展開した。(106-107)

ミニマルアート

ドナルド・ジャッドは、その三次元的オブジェクトのもっとも重要な特質を、絵画的=視覚的イリュージョンを超える現実的な直接性、明晰さ、強度にあるとした。その強度が何からもたらされるか、彼はつっこんだ分析はしなかったが、それが事物と人との機能的関係、応答に結びついていることは明らかだった。(125)

八月に鑑賞した作品

8/16 『抽象の力』 岡崎乾二郎
8/18 『男はつらいよ 寅次郎子守唄』 山田洋次
8/25 『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』 山田洋次
8/28 『プルーストと過ごす夏』 アントワーヌ・コンパニョン

七月に鑑賞した作品

7/3 『菅原伝授手習鑑・道明寺』 片岡仁左衛門坂東玉三郎中村歌六ほか
7/7 『男はつらいよ 私の寅さん』 山田洋次
7/8 『廃墟で歌う天使―ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を読み直す』 遠藤薫
7/13 『寅さん、あなたが愛される理由』 山本晋也渡辺俊雄
7/14 『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』 山田洋次
7/19 『哲学の誤配』 東浩紀
7/29 『トイ・ストーリー3』 リー・アンクリッチ

『浄瑠璃を読もう』橋本治 4/4

これはもう「文学」でしかない『冥途の飛脚』

 忠兵衛の描かれ方はそのようにリアルで、ステロタイプな和事の演技で片付くようなものではないし、近松門左衛門は「すべてを言葉で語り尽してしまうような特権的な作者」でもあるから、自分の描いた詞章で人形がどのように動くかということをあまり考えていない。――だからこそ容赦なく、リアルな人間造形をしてしまう。……彼の書く世話浄瑠璃は、当時の現実を写した「現代小説」でもある。(353)
 重要なのは「知らない」ということで、陰で八右衛門の言うことを聞く忠兵衛も、大阪商人のスタイルは知っても、そのメンタリティをよく知らない。だから、「さっきはあんなに調子を合わせてくれたのに、なんだ、裏切りやがって!」になってしまう。忠兵衛を裏切ったのは八右衛門ではなく、忠兵衛が「自分はなりきった」と思い込んでいた大阪という大都会での「一人前の商人としてのあり方」なのである。
作者名の近松門左衛門は、こういう恐ろしい落とし穴を忠兵衛の前に用意する。日本の前近代にこういう恐ろしい物語を設定しえた近松門左衛門は、とんでもない天才でもあろう。(358)
 「遊び」のなんたるかを心得ている八右衛門は、冗談の分かる人間でもある。でも、その目の奥には、女の恋を拒絶するような理性がある――そのように感じとれるからこそ、梅川は≪あのさんには逢いともない≫になるのだ。そうだとしか考えられない。うっかりすれば八右衛門を敵役にしてしまうような書き方をしていて、近松門左衛門は「しかしそうではない」と喚起するような「異物」を、しっかりと挿入しているのだ。その「異物」のありようこそが、一筋縄ではいかない「現実」の中で起こる近松世話浄瑠璃ドラマの複雑さなのだ。「現実は、そう簡単にドラマを惹き起こしてはくれない。そうであっても、現実に生きる人間は、ドラマを惹き起こしてしまう」――それが、近松世話浄瑠璃の持つ「哀れさ」なのだ。(370)

浄瑠璃を読もう

浄瑠璃を読もう

『浄瑠璃を読もう』橋本治 3/3

『菅原伝授手習鑑』と躍動する現実

 「安井の浜」は、「今まで」と「これから」をつなぐ程度の短い場面で、たいして重要なものではない。観客は、「なるほどね、そうなんだ」とか、「ああ、可哀想に」と言っていればいい程度のものだが、それはあくまでも、当時の社会の論理を理解して生きている「当時の観客にとって」で、今の我々にとっては、そう簡単に「なるほどね」とは行きにくい。「なんかよくは分からんが、そういうもんなのか……」と、舞台上では簡単に片づけられる「回りくどい論理」を呑み込むしかない。呑み込もうとして、そう簡単に呑み込めないのが「当時の当たり前の考え方」で、重要なのは、「恋愛の衝動は誰にでも訪れるが、それが現実社会で幸福に結実するわけでもない」である。
……「野放しにされてもいい」とされた(苅屋姫の)恋の衝動は、それほどの重さを持つはずのもので、であればこそ「土師の里の物語」は、妙に血腥くて、「闇の度合」が深いのである。その理由を、当時の観客たちは体の奥で理解していたはずである。(180-181)
 本来なら「松がつれないはずはない」であるものを≪松はつれない≫と囃し立てる≪世上の口≫とは、何者達なのか?それは、梅王丸と争う佐多村の松王丸を否定的に見る、観客である――その観客を味方につけた「欲求不満の正義」である梅王丸である。……「“全体主義に加担するものは、全体主義に加担していることを自覚していない”ということを、やんわりとあぶり出す」。松王丸は「正義に過剰になったものから放逐される個」なのである。(201)
 (江戸時代の町人達の歴史理解に関連し)菅原道真は延喜元年の正月に失脚し、二年後の死んだ――その歴史的事実の中に「河内の農民と三人の息子」を投げ込んだ時、一つの矛盾が見えた。それが、「二年間あなたはどうしてなにもしなかったの?」という、菅原道真への批判である。……「今更なにを?」という気のつき方をするのは、「天下の大事を理解しない無学な老人」ではあるのだけれど、白大夫という「知性」を創出してしまう知性は、かなりすごい。(217)