ミッドナイト・エクスプレス/沢木耕太郎

2008/2/15-3/16
わたしも、この本の旅ほど刺激的なものではないが、沢木氏と似たような旅をしたことがある。もちろん期間はだいぶ短いものであるが。
そのような旅をやめてから、すでに四年以上たっている。そして、当時の旅や生活は、自分の中ではすでに一時代前のことのような印象を受ける。
氏の文章を読むと、当時の旅先で感じたことが強く思い出されることが多かった。たとえば、氏が香港で味わった狂騒を私はバンコクで感じた。また、タイやマレーシアの物足りなさは二度目のベトナムで、テヘランで感じた都会の雰囲気は昆明で、イタリアの路線バスの面白さはポルトガルの路線バスで感じた。そのような意味で、この読書は過去の旅を再体験できるような楽しさがあった。
しかし、氏が経験した感情の中で、わたしが、少なくとも旅先では感じたことのないものがある。それを氏は「喪失感」と呼んでいる。彼はイタリアへ向かうフェリーの中で、次のように考えている。
「ここまで思い至った時、ぼくを空虚にし不安にさせている喪失感の実体が、初めて見えてきたような気がしました。それは「終わってしまった」ということでした。終わってしまったのです。まだこれからユーラシア大陸の向こうの端の島国に辿り着くまで、今までと同じくらいの行程が残っているとしても、もはやそれは今までの旅とは同じではありえません。失ってしまったのです。自分の像を探しながら、自分の存在を滅ぼしつくすという、至福の刻を持てる機会を、ぼくはついに失ってしまったのです。」(589)
氏は、この旅に携帯したノートに次のように書き記してもいる。
「果して旅は本当に人を成熟させるだろうか。
(中略)成熟は恐らく人の間で生きる中で生まれるもののはずである。だとすれば、旅がもたらすのは成熟とは別の何かなのではないだろうか。もしかしたら、それは「諦観」といったようなものであるのかもしれない。」(715)