街道をゆく「沖縄・先島への道」/司馬遼太郎

2007/1/26読了
「古代の漢民族は、自分たちと他者を区別するのに敏感だった。かれらは、ある種の風体と、肉体的特徴と、そして非漢民族的な生産文化を持った連中を指して、倭とか倭人とかと称した。この呼称のほうがずっと気楽で、これを称するだけで、精神の駆動範囲がひろがってゆくような感じがする。」(22)
「おばさんは、勢いこんで答えた。石垣島だけでなく八重山諸島ぜんたいがそうだが、最寄の大都会といえば、台湾の台北なのである。店頭にならんでいる野菜の顔ぶれを見ても、種子がそうなのか、台湾のものが多い。(中略)要するに八重山諸島にとって那覇は遠く、台湾は近いのである。」(73)
与那国島のこの祖納でもっとも風景のいい所が、波多浜の台上である。墓地は、そういう景色のいい、ひろやかな所がえらばれている。波多浜の台上への道は、ゆるやかな坂であった。海へ近づくために登らねばならないというのは、墓地の台上がよほど高く、そして海にむかって断崖をなしていることを示している。坂は、白い砂でできている。」(164)