街道をゆく「大徳寺散歩」/司馬遼太郎

2007/1/24読了
「(清潔と美の)二つの意味において大徳寺境内は伊勢神宮とならぶきれいさといっていい。もっとも、伊勢神宮の場合、清潔を主題としてその空間ができあがっているのに対し、大徳寺は、本来ごたごたした仏教寺院を、掃ききよめ、洗いきよめることによって、透きとおったものを感じさせる美に達している。(中略)山内の大型建築の間に松などがあしらわれ、また数百年、掃ききよめられることによって滑ったようになっている石畳と、露に息づいている苔の敷物が、きよらかさの脇役をなしている。」(96)
大徳寺のすがすがしさは、大寺によくある賽銭あつめの廟祠がないことである。中国の大寺によく付属している関帝廟とか布袋堂、あるいは日本の寺における茶枳尼天(お稲荷さん)のように欲求をさそう廟祠がなく、これによって境内がさわがしくなることからまぬがれている。(中略)さらにいえば、建物、庭園から松柏にいたるまで、象徴性に徹しているということもある。現世利益では象徴にならないのである。」(100)