『<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹 2/5

神話としてのエディプス・コンプレックス

・アンチ・オイディプス第二章では、フロイトの書簡などを根拠として、エディプス・コンプレックスフロイト自身にとっても、普遍性を持ったものでなかったことが暴かれる。
・エディプスを本質とする考え方は、血族とか氏族という見方と繋がるので、支配集団/隷属集団の関係を固定化し、愛国心などの忠誠心を培ううえで有利である。それに対し、分裂分析は家族関係的なものだけでなく、社会・政治的な要因も認め、かつ構成要素をたえず組み換え、アイデンティティを変容させる「多義的」かつ「遊牧的」な考え方を目指す。(139)
精神分析におけるルソーの罠(「自然人」的な無垢の回復を目指すが、「自然人」が「父」となってしまう、結局「父の法」支配されるというダブル・バインド)への加担。D+Gは「主体」の回復を目指すのではなく、無意識の総合作用、欲望機械の生産とそれに対する経済的社会的備給の分析が、革命的な実践に通じると示唆する。(143)
・「罠」や「おとり」をしてのエディプス。君の欲望は「エディプス欲望」だと教えこまれることで、実際にそういう「欲望」を抱いている気にさせること。「欲望」はそれ自体として革命的であり、何かを覆さずにはおかないので、エディプスによりそれを抑制させておく方が社会の安全にとって好都合なのだ。(160)
・社会全体の生産システムと、個人の欲望の相関関係が「抑圧的家族」の中での「近親相姦的欲動」の抑圧という図式に置き換えられ、「精神分析」はそのでっち上げられた図式を自明視し、その“問題解決”に当たる。置換によって作り上げられた“問題”なので、それは解決しようがないものとなる。(170)
・資本主義+家父長的な社会には、「エディプス」をめぐる精神分析の理論に対応するように見える現象があり、その素材は原初的な社会に見出せる。だからその素材について研究することに意義はある。ただし、それはエディプス的表象が「無意識の真理」だということではない。そのことを前提として、資本主義的な社会において、エディプス的な表象が強化されていく傾向にあるのは何故なのか探求することに意味がある。マルクス主義が資本主義社会に特有のイデオロギーや幻想について探求するのと同じ意義を、D+Gはエディプス的現象の探求にも付与した。(238)

『<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹 1/5

機械としての身体

オイディプス・コンプレックスに限らず、人間の欲望はほぼ既定の発達経路を巡るのであり、ごく少数の人だけがその経路から見て無駄なところに欲望を向けている、という見方、常識に揺さぶりをかけるのが、この本の基本姿勢となる。(34)
・「死への欲動」のようなまとまった欲動があるわけではなく、元々バラバラの運動をしていたであろう諸「機械」が、私たちの各機関に割り振られ、部分対象=部品として決まった役割を担い続けることに無理があり、もう一度バラバラになろうとする傾向が、身体を構成する機械たちにある。(48)
・「器官なき身体」とは、身体の各所(器官)に登録された欲望機械の運動がまずあって、「主体」はそれらの運動に巻き込まれ、運動の間を浮遊し、一つの機械から別の機械への移行で生じる新たな形態のエネルギーを消費する、欲望機械の運動の残滓にすぎない。つまり「私は○○の欲望を抱いていたはずだ」と事後的に、その働きが想定されるにすぎない。(62)
・『失われた時を求めて』の主人公は、「器官なき身体」と捉えられる。D+Gにとって、芸術家というのは、欲望の流れを一つの体系へと強引にまとめ上げる理性的な人ではなく、欲望の荒れ狂う流れを自らの(器官なき)身体でそのまま受け止め、ストレートに表現する分裂症的な人、固定したアイデンティティをもたない人である。(113)

*八月に鑑賞した作品

8/1 『妹背山婦女庭訓 妹山背山の段』 
8/2 『ブランド・ジュエリー30の物語 天才作家たちの軌跡と名品』 山口遼
8/3 『稲妻に打たれた欲望: 精神分析によるトラウマからの脱出』 ソニア・キリアコ
   『カルメンという名の女』 ジャン=リュック・ゴダール
8/26 『ツイン・ピークス シーズン1』 デヴィッド・リンチ
8/30 『ハワーズ・エンド』 ジェームズ・アイヴォリー

『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』 ソニア・キリアコ 3/3

 この本の結論として、<他者>の被害者の立場に留まらず、自らの苦しみの責任を引き受けること、それによる重圧からの解放が説かれている。
……
 ここにはひとつのパラドクスがある。つまり、人は自らの懊悩の重荷を背負う能力があればあるほど、その荷を降ろすチャンスを多く持てるのだ。だがその荷がいつまでも<他者>の側に残されていれば、それはその人を悩ませることをやめないだろう。主体的責任の一端を引き受けるだけでも欲望は解放される。こうした理由ゆえに精神分析は被害者論とは反対のものなのだ。分析的装置は主体に自らの要請を展開するように仕向け、またそれを超えて、主体が幼年期に歴史において躓いたあらゆる要請を繰り広げさせる。想像的な関係において捉えられることを許さない、そして自らの無意識的連想を投影しない<他者>にパロールが発せられるとき、このパロールを経ることは、出来事に新たな地位を与える。(167)

『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』 ソニア・キリアコ 2/3

 アリスはこのように分析家に語ることで、幻聴によって強要された根本的孤立から抜けだした。それらの幻聴はいったんシニフィアンに翻訳されると、もはや純粋に現実的なものではなくなる。なぜなら、象徴的な次元と想像的な次元がそこに加わるからだ。このようにパロールを通過することは解釈を生みだし、単なる語彙の選択から出発して作られる意味についての仮説を前提としていた。それは転移の<他者>を含む最初の結び目であり、同時に<他者>をばらばらにして不完全にし、その脅威を弱めた。(128)
 ヴィクトールは、母親の埋葬に立ち会わなかったことで、またユーモアによって自分の悲しみをごまかしたことで、父親の拒絶的態度を、知らないうちに反復させていた。ヴィクトールは父親の「抑うつ (l’humeur noire)」から「ブラック・ユーモア (l’hemeur noire)」へと移っただけであったが、このわずかなシニフィアンの違いは、現実界に対する効果的な防衛をなしていた。このように、父親への同一化は逆転したかたちで形成されていた。つまり、いつも笑い冗談を言うことで影のうちに苦悩を残していたのである。(143)
 各自は自分の人生の諸要因から暗中模索し、結びつきを確立し、出来事を意味作用の技巧によって組み立て、構築し、そしてそうしながら象徴化する。「こんな目に遭うなんて、私はどんな悪事をはたらいたというのか」……
 患者はいかに稚拙なものであったも自分の病の想像的な理論を構築することによって、自ら不在であったところに主体として参入する。患者が<他者>に語る以上、彼のパロールは躓くことがあるし、彼を驚かすこともある。そして、彼のディスクールの亀裂において彼自身も思ってもみなかった無意識の次元が露呈するであろう。おそらくそこにひとつの解決法がある。それはこの消化不良な現実的なものを謎めいた症状へと、つまり明確に言われることを待っている欲望についての隠れた真理へと変えるだろう。(151)
 致死的な病に侵されたジャンは、画架の脚がシロアリに喰われ、画の上部に「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と署名されたデッサンを書く。
 彼が死を超えて部分的に不死だとすると、それはまさにシニフィアンの秩序に、固有名詞に属しているからだ。芸術作品はそれを制作した者の手をいったん離れ、残る。それは万人のためのもので、共有される文化の場所、<他者>の場所に参加する。作品は自らの含むもっとも壊れやすいもの、もっとも儚いものによって表わされ、時間による摩滅、シロアリの被害に晒されている。ここで作品自体が危険に晒されているとしても、ジャンはレオナルド・ダ・ヴィンチを呼びおこし、画家が歴史の中に残した不滅の痕跡を示すのだ。これはこの少年が好んで出す話であり、それは彼自身が現実界の重みのもとでつぶされたままではないということを示している。……
 致死的な病とのこうした不幸な出会いをした者にとって、打ちのめされないための唯一の方法はこのように現実を捻じ曲げること、不可能なものを思考可能な現実に変換することである。それは決定的な選択だ。(157)

『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』 ソニア・キリアコ 1/3

 副題に記載されている通り、精神分析によるさまざまな症状からの回復事例を紹介した本。特に、以下の点がポイントとなる。
精神分析は、既定の治療法を適用すれば良いというものではなく、患者一人一人にむきあい、それぞれの解決策を考えていかなければならないこと。
・分析は精神分析家が一方的に行うものではなく、逆に患者が精神分析家の力をかり、自らのストーリーを作り上げることで、精神的外傷を治癒するものであること。
・分析の結果、トラウマが完全に解消するわけではないが、患者の生活が良い方向に改善すれば、それでいったんの終了とする場合もあり得ること。
 以下が臨床例の引用となるが、ラカン派の精神分析の方法や、その概念の適用例が、大まかに掴めるのではないかと思う。
……
 ニーナは分析のおかげで、<他者>の対象という立場に留まることを回避できた手がかりをつかむ。彼女は、自分をひどく醜いと思わせた外傷を認めるだけでは不十分であった。ニーナは、考えられないことを「私は男の子を惹きつける」という、ひとつの公式に変えていた。その結果、外傷は意味の外にある現実的なものではなくなる。外傷は想像的なものと象徴的なものによって飾られた手の届くものとなり、取り扱いができるようになる。つまり、外傷は治療の中で言い表わすことのできるファンタスムとなったのだ。(27)
 フロイトの分析による、少年ハンスの恐怖症は、馬への恐怖症の形をとる不安の症状の転換である。恐怖は不安から身を守るために利用される。症状とは知の中の穴への、ジュイッサンスを内包する返答である。主体は苦しみ、苦痛を訴えるが、それでも何よりもそれにしがみついている。このパラドクスは、精神分析による最初の発見のひとつであった。(45)
 ヒステリー者の欲望は不満足のうちに留まらなければならない。というのも、欲望されているのは欲望それ自体だからである。アナが我慢するのは欲望を感じるためであった。これは彼女が幼年時代からよく知っている方法のひとつだった。(88)
 ラカンは<父の名>のシニフィアンを、全てのシニフィアン的構造を支えると見なされる特権的シニフィアンとして強調した。シニフィアン的構造抜きでは「人間的な意味の秩序を確立できない」のだ。このシニフィアンは、父性隠喩の作用により成立し、無意識に現前する現実界想像界象徴界という三つの次元を結びつけている。子供にとっては<父の名>は、母親が来てくれたり去ってしまったりすることによって謎となった母親の欲望に取って代わり、その知られざる意味作用に鍵を与えるものとなる。その隠喩の作用が起こらない場合、<父の名>は排除されたままとなる。そして無秩序に現れたりいなくなったりする原初の<他者>の気まぐれを妨げようとするものはなにもなくなり、それとともに<他者>は自らの全能性を保持するのである。
 こうして、ボリスは母親のファンタズムの対象の場所にとどまっていたので、男性として生きる手前で途方に暮れてしまったのだ。(109)

*七月に鑑賞した作品

7/4 『Blur No Distance Left to Run』 ウィル・ラヴレース、ディラン・ソーソーン
7/6 『ワン・プラス・ワン』 ジャン=リュック・ゴダール
7/11 『利口な女狐の物語』 アン・デア・ウィーン劇場 ステファン・ヘアハイム演出
7/13 『巴里祭』 ルネ・クレール
7/27 『ザッツ・エンタテインメント』 ジャック・ヘイリー・Jr