『ひらがな日本美術史3』 橋本治 1/2

変り兜

 「戦う」とは、その当人の中に「戦って勝つんだ!」という自己主張があるということである。「婆沙羅」は、「戦う」という雰囲気を濃厚にたたえた時代の、自己主張なのである。そして「婆沙羅」は「ばしゃら」とも「ばしゃれ」とも読む。そうだったら、この言葉が、「おしゃれ」の語源になるだろうということは、いとも容易に想像できる。「おしゃれ」とは、「戦いたい」という気分なのである。(44)

辻が花小袖

 その可憐さは、麻の着物という“生活実感”の中に咲き、時代は「小袖でいい」という武士の時代だった。絹の着物を着ることが出来る上流人士も、やがてその“町の美”を、自分の着物に取り込んだ――そうして完成するのが、“近世の花やぎ”辻が花小袖なのである。時代は成熟しかかっていて、「辻が花」をブランドネームに掲げた絞り染は技術的にも向上して豪華になり、豊臣秀吉徳川家康のところにまで届いた。そうなった時の辻が花染めは、もう「町角の花」の名にふさわしいものではなかった。「辻が花染めの技法による豪華な着物」だけが残って「辻が花」の名が消えるのは、そんな理由だと思う。(60)

高台寺蒔絵

 「高台寺蒔絵」の特徴は、「小さな円形」であらわされた「露」で、この「露」は、黒字に風になびく金のススキが向かい合うだけの≪秀吉厨子扉≫にも、ちゃんと描かれている。黒と金だけの扉の表が、なぜ「豪華にして繊細優美」なのかと言えば、このススキの葉の上に美しい「露」がいっぱい置かれているからだ。この「露」はそれほどに美しく重要だと、私は思う。(64)

狩野永徳

 「あと少しでなんとかなる」――そう思いながら、その“あと少し”がなんとかならなかった。それが、戦国時代の末期である。それをさっさとやってしまったのが、天才肌のお坊ちゃん=織田信長である。“あと少し”を越えて、安土桃山時代はやって来た。その安土桃山時代とはなんだろう?それは、ジーサンにもオヤジにも達成できなかった“自由”である。だから、それを真っ先に体現出来た人物こそが、「安土桃山時代を創った男」なのである。それは、信長でも秀吉でもない。狩野家が三代かけた後のお坊ちゃん=狩野永徳である。だから、信長も秀吉も、その気運を追った。安土桃山時代とは、まず狩野永徳の中にあったものなのである。(105)

長谷川等伯

 その画面に囲まれた部屋の中で、我々は一々“絵”を見るだろうか?その絵を見るために、一々部屋のへりを歩き回るのだろうか?部屋の真ん中に座って、一々その体を回転させて四方を見るのだろうか?長谷川等伯の「松の絵」は、そんな野暮を笑うだろう。もしもこの≪松林図屏風≫が襖絵になっていたら、我々はその部屋の中で、ただ“渺茫たる広がり”を感じるのである。
 これは、長谷川等伯の≪松林図屏風≫に限ったことではない。……我々はそこに、「安土桃山時代」というとんでもない時代の「空間」を感じる。(138)