30年越しのマイアミ

 『マイアミ午前5時』『セイシェルの夕日』...。1980年代初頭に、アイドルの松田聖子が発表した曲には、遠い国への憧れを抱かせるようなタイトルがついている。この曲を作るために、実際にマイアミやセイシェルに行く必要はない。写真や映画見た、異国のきれいなイメージがあれば、それを歌にできるのだ。
 今まで行けなかった外国の土地に、少し無理をすれば行けるような気がする。でも、まだ外国は遠い地としてある。80年代初頭とは、そのような時代であり、歌の中のマイアミという土地は、どこか幻想的な夢の場所のような響きがある。
 もし、90年代に同じような楽曲が、人気ミュージシャンの新曲として発表されたら、白けた気分にしかならなかっただろう。1週間ほどの休みと小金があれば、格安航空券を買って、ハワイどころかセイシェルでもコートダジュールでも行ける。10年もたてば、外国の土地を覆っていた幻想の霧は、すっかり取り払われていたのだ。
 しかしふと思うのだが、今の時代、外国はまた遠い場所になり始めているのではないだろうか。とくに若い世代で、海外に行くひとの数は減っている。それは、若者が内向き志向になっているだけではなく、行きたいけどそれだけの余裕がない、という理由もあるのだ。20年前に比べ、多くの人が経済的な余裕が小さくなり、マイアミはまた夢の土地になりつつある。
 いま改めて『マイアミ午前5時』にような楽曲が発表されたら、どのように聴かれるだろうか。かつてのように、白けた気分で受け入れられることはなく、むしろノスタルジックをもって、好意的に受けいれられるのではないだろうか。かつては容易に手に入れられたが、手に入れるのが難しくなったものとして、マイアミやセイシェルという土地は、いま存在している。時代はそのように変化しているのだ。
 外国が、再び幻想の霧の中に包まれる時代。何年後かに訪れるかもしれないその時代、ひょっとすると私たちはいまよりも幸福感を感じているかもしれない。