『ブラームス:ヴァイオリン協奏曲』 オイストラフ、クリーヴランド管弦楽団

 「この音楽には、ベートーヴェンにはなかった一種の郷愁の味わいがある。一抹の憂いを帯びた味わいがある。それは、このあとになってもぬけない。いや、それどころか、あんなにおちついた、のびのびとした拡がりのように思われたものが、いつのまにか省察と静観のトーンに彩られてゆくのをききのがす耳はないはずである。」(吉田秀和『私の好きな曲』より)
 省察と静観のトーンは、例えば第一楽章の流麗な第二主題のことをいうのかもしれない。しかし、その感情は行き過ぎることはない。一線を超えず、再びもとの音楽の中に回収されるのだ。
 「ブラームスの音楽は、R・シュトラウスのそれなどとちがって、一方で豊かな肉づきの響きを求めながら、内容的にはひどく省察的で内向的で、ともすれば孤独と諦観に安住しようとするところがあるからである。管弦楽も、使われている楽器が多いくせに、音色は地味なのである。ブラームスを愛するというのは、彼の矛盾を愛することにほかならない。もっとも、人を愛するというのは、どだい、そういうことなのだろうが。」(同上)
 緩徐楽章である第二楽章が過ぎ、民族的な第三楽章においても、その印象は変わらない。民族的な旋律は支配的ではあるものの、奏でられつつ、中断を余儀なくされる。また、一見陽気な旋律の中には、つねに哀しみというか、孤独が見え隠れするのだ。
 「私は、どんなときも、ブラームスの音楽の根本にはジプシー的なものがあったと、主張するわけではない。まして「彼の音楽のあの威風堂々とした、重厚な構成感は借りもので、土俗的感傷的なものこそ、彼の土台だ」という考え方には、私は賛成できない。しかし、この二つが一つになっているのがブラームスだとみなければならないとは思う。ブラームスは自分のありのままをむきだしに出す人でなくて、それを克服して、創作するタイプの芸術家だった。そこに彼の精神の高貴があり、表現が直截でなく、間接的で、絶えず何かに憧れているような情緒のまといついている、いちばん深い原因があった。彼には、彼独自の苦しみとやさしさ、それから戦いの歴史があった。」(同上)

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲