ケータイ小説的/速水健朗

2008/7/27-8/9

ケータイ小説におけるリアル

ケータイ小説とは、「投稿文化」「UGC」というキーワードを背景にしたコミュニケーションから生まれた作品群である。故に、「ケータイ小説におけるリアル」を、「実際にあった話」かどうかといったレベルで判断するなら、実際にあった話ではないと断言できる。
『恋空』に代表されるような、不幸満載のケータイ小説は、携帯電話普及以前からヤンキー少女的世界に存在していた「不幸自慢」文化の延長であると考えられる。それは、携帯電話の普及ののちに生まれた携帯サイト(具体的には魔法のiらんど)という新しい投稿のフィールドに受け継がれ、よりハイパー化された「不幸自慢のインフレスパイラル」となり、出版コンテンツとしての価値を見出されるに至ったのだ。ケータイ小説のモチーフである幾多の不幸は「リアル」ではなく「ファンタジー」である」(110-111)

ケータイ小説から見える恋愛像

「「つながること」自体が重要で、その中身はたいして意味を持たないというコミュニケーションの変化が起こっているのなら、恋愛においても「つながること」にだけ価値がおかれ、濃密なコミュニケーションは失われていくのではないか。
実は、こういった恋愛像の変化は、まさにケータイ小説で描かれる恋愛像に顕著であるように思える。携帯メール、束縛、暴力、セックス、またメール……。ケータイ小説の登場人物たちは、常に携帯メール依存的な「つながること」へのアディクションと、濃密なコミュニケーションからの逃避としてのセックスを繰り返す日常を過ごしているように見える。その間をつなぐ、感情の交換や価値観のせめぎあいのようなものは、基本的に欠如しているのだ。「つながること」だけに重きを置く恋愛像とは、ケータイ小説における恋愛像そのものなのだ。
もちろん、これをコミュニケーション能力の劣化ととるのは間違いだ。これまで論じてきたように、コミュニケーションのルール自体が変化し、それに適応したにすぎない。コミュニケーションが変容し、社会が変容すれば、個人のライフスタイルや恋愛の在り方も当然変容すると考えるべきなのだ。」(207-208)
ケータイ小説において恋愛ストーリーを成立させている障壁とはいったい何か。彼らの間に立ちふさがるものは、彼ら自身が生み出しているコミュニケーションという逃れられない檻である。
つまりコミュニケーションの変化そのものが、ケータイ小説を恋愛ストーリーとして成立させている障壁であり、顕著に現われでた時代性なのだ。
ここまで取り上げてきた「優しい関係」もしくはAC的な作法は、傷つけあうことを避けるために生じた技術だが、その技術が浸透するとそれ自体が抑圧となり、現代ならではの生きづらさを生んでいる。そして、それらとの対峙こそが、ケータイ小説における文学的主題であると言えるのではないか。」(210)