テヅカ・イズ・デッド/伊藤剛

2008/6/28-7/11

「キャラ」と「キャラクター」

筆者はこの二つを次のように定義している。
キャラ:「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指しされることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの」(95)
キャラクター:「「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの」(97)

「マンガのモダン」の起源

「耳男の「死」によってもたらされたものとは何か。
それは、「キャラ」の強度を覆い隠し、その「隠蔽」を抱え込むことによって「人格を持った身体の表象」として描くという制度だと考えられる。マンガ表現は、耳男の「死」とともに、プロトキャラクター性の強度を見失ったのである。プロトキャラクター性は現在に至るまでずっと存在し続けている――それなしにはキャラクターは成立しないのだから――にもかかわらず、それは否認され続けてきた。その否認の身振りの端緒を、『地底国の怪人』に見て取ることができる。
またこれは同時に、狭義の「マンガのモダン」の起源でもある。であれば、マンガのモダンとは、自身のの起源を否認し、隠蔽することで成立していることとなる。あるいは、自らのリアリティの源泉に対する否認が、別のリアリティを渇望させたという見方も可能だろう。起源の隠蔽と否認による成立。これこそが、日本のマンガについての表現史が書かれ得なかった真の原因ではないのか。」(141)

マンガの映画的リアリズム

「現在のマンガにおいては、仮想的なカメラアイの存在を前提に、リヴァースショットを多用したコマ展開は、ごく普通のものとして用いられている。とりわけ、少年マンガ/青年マンガにおいては主流といってよい。それらは、前章でいう「キャラクター」、すなわち近代的な意味での「人間」を描くことを大きな前提としてる。少なくともそうしたリアリズムの水準を保つことを自らに課している。その担保条件のうえで、私たちはそのマンガの登場人物たちに対し、現実の私たちと同じように政治的・倫理的な評価すらできるのである。」(216)
「「映画的」リアリズムが、「マンガ的」なるものの二重の抑圧によって成立していることを見失ってはいけない。「映画的リアリズム」が、強く抑圧しているのは、ここまで見てきたような「フレームの不確定性」と、「キャラの持つリアリティ」なのである。あるいはここで、あまりに「映画的リアリズム」に忠実たらんとしたマンガ作品が、いかに貧しいものに終わったかを思い起こしてもいいだろう。その抑圧されきれない残余の豊かさこそを、私たちは見なければならない。」(219-220)