羊をめぐる冒険/村上春樹

2008/2/4-3/1
柄谷行人は『村上春樹の風景』の中で、この作品について論じている。その主張によれば、ここで追い求められている「羊」とは、彼が論の中で展開する「アジア」「民権」に属する「アジア主義」の領域、「暴力」の領域であるとする。「アジア主義」とは「民権の延長としてアジアの開放を目指すもの」である。作品の中で「羊」の概念は明確には説明されないが、登場人物の会話の中からは、それがある種の思想であることが読み取れる。
「本当のことを言えばあの羊にはこれ以上関らん方が良いと私は思う。私がその良い例だ。あの羊に関って幸福になれた人間は誰もいない。何故なら羊の存在の前では一個の人間の価値観など何の力も持ち得ないからだ。」((下)71)
「人は羊つきになると一時的な自失状態になるんだ。まあシェル・ショックのようなもんだね。そこから彼をひっぱり出すのが君の役目だったのさ。しかし彼に君を信用させるには君が白紙でなくてはならなかった、ということだよ。」((下)242)
この作品の最後で、「鼠」は「羊」をつきとめたあと自殺する。「羊」が彼の中に入り込んだからである。村上春樹は「羊」を殺すことにより、「アジア主義」止めをさしたことになる。
彼の作品が現在の韓国や東欧で人気があるひとつの理由として、政治の季節が終わったあとの喪失感を描いているからだといわれる。この作品では、それは「アジア主義」という時代的な思想ということになる。次の箇所は、その喪失の気分を強く示している。
「僕は二十九歳で、そしてあと六ヶ月で僕の二十代は幕を閉じようとしていた。何もない、まるで何もない十年間だ。僕の手に入れたものの全ては無価値で、僕の成し遂げたものの全ては無意味だった。僕がそこから得たものは退屈さだけだった。
最初に何があったのか、今ではもう忘れてしまった。しかしそこには何かがあったのだ。僕の心を揺らせ、僕の心を通して他人の心を揺らせる何かがあったのだ。結局のところ全ては失われてしまった。失われるべくして失われたのだ。それ以外に、全てを手放す以外に、ぼくにどんなやりようがあっただろう?」((上)148-149)