嗤う日本の「ナショナリズム」/北田暁大

2007/12/5-12/22
1960年代以降の日本社会を、「反省」の系譜に沿って、現代の「ナショナリズム」の源泉を分析している。
筆者は、現代を「ロマン主義的シニシスト」の時代であるとしている。その行為の動機は「不確実な他者への接続可能性」であるとし、「ナショナリズム」や「反市民主義」といったロマン的な対象は、行為の接続可能性を高める媒体にすぎない。
「ロマン的対象は、一見個々の行為者に行為の理由を与えているようにみえるが、じつは、「私の行為が他者によって接続されてほしい」という実存的な欲求によって事後的に仮構された「理由の備給点」にすぎないのである。(中略)嗤う日本の「ナショナリズム」とは、実存に「ナショナリズム」を下属させる、ナショナリズムからアウラを奪う不遜な実存主義だったのである。」(223)