ゲーム的リアリズムの誕生/東浩紀

2007/7/9-7/22

ライトノベルの本質

ライトノベルの作家と読者は、戦後日本のマンガやアニメが育てあげてきた想像力の環境を前提としているために、特定のキャラクターの外見的な特徴(さきほどの引用箇所では「眼鏡」「小柄」といった表現)がどのような性格や行動様式(「神秘的な無表情系」「魔女っ娘」)に結び合わされるのか、かなり具体的な知識を共有している。したがって、彼らは、作品の中に(たとえば)小柄でドジな女の子が現れれば、半ば自動的に、彼女がこの状況ではこうする、あの状況ならそうする、と複数の場面を思い描くことができる。作家もまた、読者にそのような能力、いわば萌えのリテラシーを期待して、キャラクターを造形することができる。
この定義を採用すると、前節で問題となった多ジャンル性も簡単に説明することができる。ライトノベルのキャラクターは、個々の物語を超えたデータベースの中に存在している。少なくともそう想像されている。したがって、彼らは、ひとつの人生を歩み、ひとつの物語のなかで描かれる人間というよりも、さまざまな物語や状況のなかで外面化する潜在的な行動様式の束として想像される。」(45-46)

メタ物語的な想像力から生まれるリアリズム

ポストモダンの日本は、文学史とマンガ史を交差させ、キャラクターのデータベースという大きな想像力の環境を作りあげた。その人工環境が紡ぐ物語、すなわちキャラクター小説は、まんが・アニメ的リアリズムゲーム的リアリズムという、二つのリアリズムに導かれている。
まんが・アニメ的リアリズムは、自然主義の屈折した歴史と、その屈折が生み出した文体の半透明性に支えられている。結果として、その表現は、「キャラクターに血を流させることの意味」をめぐる、困難で逆説的で、同時に倫理的でもある課題と対になって発達することになった。(中略)
ゲーム的リアリズムは、ポストモダンの拡散した物語消費と、その拡散が生み出した構造のメタ物語性に支えられている。その表現は、まんが・アニメ的リアリズムの構成要素(キャラクター)が生みだすものでありながら、物語を複数化し、キャラクターの生を複数化し、死をリセット可能なものにしてしまうため、まんが・アニメ的リアリズムの中心的な課題、すなわち「キャラクターに血を流させることの意味」を解体してしまう。」(141-142)

ポストモダンにおける実存文学の可能性

「私たちは、メタ物語的でゲーム的な世界に生きている。そこで、ゲームの外に出るのではなく(なぜならばゲームの外など存在しないから)、かといってゲームの内に居直るのでもなく(なぜならばそれは絶対的なものではないから)、それがゲームであることを知りつつ、そしてほかの物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これが、筆者が読むかぎりでの、『九十九十九』のひとつの結論である。
そして、その結論は、あらためて『動物化するポストモダン』の状況認識と繋げるならば、ポストモダンの「解離的」な生の問題、すなわち、大きな物語の消尽のあと、もはや自分が動物=キャラクターでしかないことを知りながらも、それでも人間=プレイヤーでありたいと願ってしまう私たち自身の、いささか古い言葉を使うならば「実存的な」問題と、きわめて密接に結びついている。」(287-288)