デュルケム「自殺論」を読む/宮島喬

2007/5/19-5/26
デュルケムは十九世紀後半の自殺増加の要因を、「近代的な自我の危機」としている。
「近代的な自我というものが危機を経験するときには、その危機の経験の仕方は二つあるということです。一つは、自己の内部に孤立化してとじこもるような危機であり、もう一つは、自己を駆り立てる欲望を自分でコントロールできなくて、むしろ外に向かって自己を失っていくような危機です。これを私なりに少し勝手に解釈してみますと、自己本位主義の方は、個人にとっての外への帰属、あるいは所属が立たれてしまうことであり、アノミーは、達成(アチーヴメント)をたえず志向し、しかし、その達成に挫折し、自我の縮小感や卑小感を体験することだといえるでしょう。」(122)この前者の影響による自殺が『自己本位的自殺』、後者によるそれが『アノミー的自殺』となる。
『自己本位的自殺』は近代になり集団の凝集度が低くなったことにその原因があるとしている。プロテスタントの高自殺率を考えるにあたり、彼は凝集度の低い社会構造というものを第三の変数とした。「かれの考え方は、プロテスタントの人口の比率が高いところでは、その社会はより凝集度あるいは統合度の低い構造にならざるをえない、別の言葉でいえば、より個人主義化された社会にならざるをえない、そのことが高い自殺率を規定しているのだ、というふうに脈絡づけている。」(89)
アノミー的自殺』の原因に関しては、筆者は次のような考察を述べている。「これは私の言葉ですが、強迫的な充足願望とは、たえずあらたな欲望の充足を目指して行動していないと不安であるような心理のことです。この充足願望が完全な意味で満たされることはないわけだから、つねに手のとどかない幸福幻想にすがるようなもので、この幸福幻想によってかえって人々は苦しめられる。」(172)この言葉は、ラカンの「欲望を持ちたい欲望」を連想させる。また、デュルケムが挙げている次の例も興味深い。「また、大成功に酔っているとき、ふと耳にした野次の口笛のため、また多少手きびしい批評を受けたため、あるいは人気が頭うちになったために自殺をはかる、あの芸人たちすべての例である。」(139)
さらに、筆者はデュルケムの『規範』の思想にも触れ、次のように述べている。「かれは、社会環境というものは、もともと共同の観念・信仰・習慣・傾向などから成り立っている、と『自殺論』のなかでも書いております。つまりそのなかに人間が生きている社会的な環境というものは、機械的な自然的環境のようなものではなくて、観念・信仰・習慣などから成り立っているということです。これら全体を、今私は規範ないし規範的なものと申しました。」(72)この考え方の一例として、デュルケムは猿真似のような模倣による自殺を否定する。「デュルケムがいいたいことは、一見模倣に見える行為であっても、純然たる模倣に帰せられるべきではなく、なにか人々がある共通の規範や共通の社会的な影響のもとに置かれて、それらがかれらを同じ方向に行動させている場合が多いのではないか、ということです。」(68)