文学とは何か/イーグルトン

2007/1/14読了
「外的世界に汚されることなく、何も意味することのない独り言という考え方は、現象学そのものに実にぴったりのイメージである。人間の営為と経験からなる「生活世界」を、伝統的な哲学の残酷な束縛から解き放つのだというその主張にもかかわらず、現象学は、世界そのものを捨象した頭だけの存在に終始した。人間的知を構築する確固たる基盤を提供すると約束しておきながら、人間の歴史を犠牲にするという大きな代償を支払わなければその約束ははたせなかった。
そもそも人間的意味とは、つきつめれば歴史的産物なのだから、歴史を捨象したことの意味は重い。」(97)
「伝統批評は、文学作品を作家の精神がのぞける窓に還元してしまうことが多かったとすれば、構造主義はどうやら、作品を普遍的精神のうかがえる窓に還元してしまったようだ。(中略)あまつさえ、伝統批評家が、精神的エリートを作りだすのに一役買ったとすれば、構造主義者は、「一般」読者には望むべくもない深遠な知識で武装した、科学的エリート形成にたずさわったとしか思われないのだ。」(174)
「言語は、本質的に「対話的」なものとみなければならない。言語を、他者に対する志向性を帯びずにはいられないものとしてみてはじめて、言語は把握可能になる。記号は、(信号のような)固定された単位としてみてはならない。記号は、発話行為の生ける構成要素である。この構成要素の意味は、特定の社会状況のなかで記号がその内部に集約的にはらむ可変的な社会的諧調、価値づけ、コノテーションによって、修正を受けまた変更される。そのような価値づけとコノテーションは、つねに、変化するものであり、また「言語共同体」とは、実際には、多くの対立する利害からなる<不均質な>社会である。したがってバフチンにとって記号とは、所与の構造のなかの中立的要素ではなくて、闘争と矛盾の焦点にほかならなかった。」(181)
「(<自由>、<家族>、<民主主義>、<独立>、<権威>、<秩序>などの)第一原則は、特定の意味体系を外側から支えているものではなく、その特定の意味体系の所産だと証明可能なのだ。この種の第一原則は、ふつう、それが排除しているものによって定義される。つまり、第一原則は構造主義が特に好んだ「二項対立」の一部にすぎぬことになる。」(205)
「現在、「文学」の肩書きを帯びているテクストは、それ自身がその部分であるところのより広くかつ重層的な言説編制のなかに再びさしもどされれば、現在のような形で認知されまた定義される可能性はまずなくなるだろう。(中略)だが、「文学」なる語のもたらす効果の一つが、私たちにこの事実を認識させないようはたらきかける点は忘れるべきではない。」(326)
人文主義者たちは、政治的にも経済的にも共通の価値で支えられる世界を実現するというプロジェクトを、「普遍的な」価値に訴えて実行しようとしている点でまちがっている。なぜなら、まだ、そのように再構築されていないこの世界に、「普遍的な」価値などあるはずもないのだから。しかし、普遍的な価値の可能性を信じる点において人文主義者は誤ってはいない。ただ普遍的な価値がいかなるものであるかは、いまのところ誰にも正確には予想できないだけなのだ。」(364)