*十二月に鑑賞した作品

12/5 『この空の花 長岡花火物語』 大林宣彦
12/8 『戦場のメリークリスマス』 大島渚
12/12 『野のなななのか』 大林宣彦
12/13 『平成最後のアニメ論:教養としての10年代アニメ』 町口哲生
12/14 『ジョージ・バランシンくるみ割り人形』 ニューヨーク・シティ・バレエ
12/20 『海辺の映画館―キネマの玉手箱』 大林宣彦
12/30 『教養としての生成AI』 清水亮

*十一月に鑑賞した作品

11/1 『哀愁』 マーヴィン・ルロイ
11/8 『欲望という名の電車』 エリア・カザン
11/11 『訂正可能性の哲学』 東浩紀
11/14 『廃市』 大林宣彦
11/22 『青春デンデケデケデケ』 大林宣彦
11/28 『はるか、ノスタルジィ』 大林宣彦
11/30 『地上より永遠に』 フレッド・ジンネマン

*九月に鑑賞した作品

9/5 『ザッツ・エンタテインメント PART2』 ジーン・ケリー
9/7 『眺めのいい部屋』 ジェームズ・アイヴォリー
9/12 『ぼくの映画人生』 大林宣彦
   『帝都物語』 実相寺昭雄
9/14 『ゆきゆきて、神軍』 原一男
9/16 『ドゥルーズ+ガタリ<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹
9/19 『HOUSE』 大林宣彦
9/21 『花嫁の父』 ヴィンセント・ミネリ
9/26 『ふりむけば愛』 大林宣彦
9/28 『熱いトタン屋根の猫』 リチャード・ブルックス
   『世界はなぜ地獄になるのか』 橘玲

『<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹 5/5

社会とつながる無意識

・社会に繋がった各人の無意識は妄想を介して、社会のいろいろな場に「備給=投資」されたり、脱備給されたりする。妄想は「隔離的segregatif/遊牧的nomadique」が潜在的に存在する二極で、それぞれが政治的に極端な方向に走ると、「ファシズムパラノイア的」な型と「革命的分裂者的」な型として現れる。精神病や神経症は、社会的な妄想に見られる、無意識の欲望の偏りとか噴出と見なすことができる。(323)
マルクスは、貨幣価値で表象される“労働”と現実の「労働」のズレを指摘したが、D+Gは同じことを「欲望」で行なう。古典派やマルクス経済学では「労働」を工場労働に限定して考えたが、現代ではサービスや知的労働など、労働の概念は広くなっている。「欲望」もエディプス的な家族をめぐる表象に限定して理解しつづけるわけにはいかない。(344)
・「労働」を資本の公理系に、「欲望」をエディプス的家族の枠に押し込んで分断してしまい、脱領土化を制限するのが「社会的疎外」である。その「欲望」が家族の枠内に収まらないと、社会的な脱領土化とは関係のない、「心の病」として処理される。『失われた時を求めて』の話者のように、いろんな大地を渡り歩くうちに、新しい大地が作り出される可能性は考慮に入れられない。(354)

「構造」を取りはらう

・「ファルス」は人間の精神の発達を支配する原理として、万人にアプリオリに備わっているわけではない。ただし、「ファルス」がいったん導入され、私たちの表象系の中に定着すると、全ての欲望、あらゆる意味作用の中心であるかのように機能する。構造主義の「構造」も、私-君-彼女といった人称的関係も、「ファルス」によって事後的にモル上に固められて、それらしく作用するようになっただけのもの。単なる「概念」が実体化し、「無意識」さえも支配している。(364)
・D+Gは、モル的組織、つまり「社会的機械」の存在を全否定するわけではない。モル状になって作用し、ときとして無意識を罠にかける「社会的機械」の存在自体が問題なのではなく、それと一見分子的にふるまう「欲望機械」との関係が見えにくくなっていることを問題とする。(380)
フロイトが「性愛」を汚らしいイメージの中に封じ込めたのは、彼自身が男女の淫らな秘め事のような、ステレオタイプのイメージしかもっていなかったからである。絵画は、画家たちが従来持っていた「具象性」についての狭いイメージを脱して、もっと多様な見え方、見ることをめぐる欲望とその表現可能性を追求してったが、精神分析も同じように、性愛に関するイメージを変えるべきである。(398)
・D+Gは、まず「無意識」が家族的な関係性から発生するという前提を取り去る。そして、リビドーが「パラノイア的、反動的、ファシズム的」な極と、「分裂気質の革命的」な極にの双方に注入され、この二つの傾向のせめぎ合いとして、欲望機械の動向を分析する。エディプス的現象も、この二つの傾向のせめぎ合いとして説明できる、という立場をとる。(411)

『<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹 4/5

資本主義とエディプス

・大地機械、専制君主機械に続く資本主義機械では、社会の中で決まった役割を担っている人物や機関を、父や母(のようなもの)だと認識させる力が働く。例えば、職場や住んでいる都市や国家を家族的に捉えることになる。家族的なイメージが覆いかぶさることで、社会全体のシステムを批判的に見る視点が持ちにくくなる。(304)
フロイトは特定の対象や目標に縛られないリビドーの存在を想定することで、「欲望」を脱領土化、脱コード化したが、それが働く領域を「家族」に限定し、再コード化してしまった。社会動かす「超越的対象」に対する「良心の呵責」、存在の負い目であれば解消しようがないが、エディプス三角形にその原因があれば、精神分析によって解決できることになる。D+Gの視点から見れば、それはこじんまりした、社会の根本的な在り方は問題にしない、疑似治療法ということになる。(312)
・欲望の備給、配置は社会野でおおよそ規定され、子供はその経路に従い色々な経験をする。一致の年齢に到達しさえすれば、肛門期とかエディプス期に達することが生得的に備わっているわけではない。(322)
・「資本主義機械」は脱コード化・脱領土化を進め、分裂的な欲望を解放することで、富を生みだしたが、それがグローバル化し、地表を覆い尽くすと、もはや脱領土化・脱コード化できなくなる。それが資本主義が死ぬということかもしれず、その意味で「資本主義機械」は「死への欲動」によって動かされている。
 G+Dは、フロイトは「資本主義機械」の運動全体を見ないまま、「死への欲動」を基本的に個人の内面、無意識の問題として捉えていると批判する。彼らにとって、「死への欲動」とは、自らの「死」へ向かってゆく「資本主義機械」の運動が個体レベルで現れたものとなる。(372)
・人のアイデンティティは本来多様なのもので、いろんな人格を経験していく可能性があり「分裂者」はまさにそうした生を生きている。しかしエディプスを核とする近代の家族主義は、それを家族の中で形成される“元来のアイデンティティ”へと連れ戻そうとする。「分裂者」は様々なキャラを演じることで獲得してきた身体的強度や、彼にとっての(変容しつづける)「現実」を奪われ、「器官なき身体」、つまり強度ゼロの状態まで押し戻される。つまり「現実」を奪われ、「自閉症」にされることになる。(176)

『<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹 3/5

構造、機械、エクリチュール

・「構造」と「機械」の違い。交換主義的な発想は、「統計学的に閉じられた閉鎖システム」を要請し、「構造を心理的な確信(サイクルは閉じられるだろうという安心感)によってささえられること」を要求するが、負債ブロックの開放性や、統計学的に見た組織体とその構成要素(分子)との関係についての経験的事実は、そうした構造論的なモデルには適合しない。経験的事実が、「構造」では説明しきれない問題、根源的な不均衡の所在を示しており、それは「欲望機械」の運動に起因する。(249)
エクリチュールと欲望。D+Gは、身体レベルでの欲望機械の運動と直接的に相互作用し、その一部になっているような原初的なエクリチュールと、そうした身体性を失って、抽象化したエクリチュールを区別する。彼らは、デリダのようにパロールエクリチュールの対立あるいは代捕関係を一般化せず、両者をできるだけ欲望に関連付けて理解する。(274)

専制君主と近親相姦

専制君主機械は「死の本能」のような危険なものも、その中に取り込む。そうでないと、王の身体に収まりきらない異質なもの、「外部」に由来するものが、国家の中に入り込み、秩序を脅かしてしまう。キリスト教では、悪魔が神の創造物で無いとは言えないし、現在の国家でも、取り締まりが不可能な乱暴者を警察や軍隊など国家の暴力装置に抱え、おかしな言動で人を惑わす輩は、宗教人や芸術化、芸人として位置づけて間接的に管理する。(266)
専制君主の近親相姦行為について。それは、神、あるいは神との媒介者である王だから許される特殊な行為、新しい縁組を示すことで、共同体の基礎付けとなる行為であって、そうではない普通の人間には禁じられている。エディプス神話も、見方によっては王侯だからこそ、特別な意味を持つ出来事と取れる。普通の人間には許されない近親相姦という聖なる行為を犯した英雄だからこそ、ゼロから新しい秩序を作りだせる強い存在だと人々に印象付けることができるのだ。(269)