ここまでであれば『消え去ったアルベルチーヌ』は、ただの恋愛心理小説の名作に過ぎないかも知れない。しかし、小説の後半、物語は別の様相を帯びる。主人公のアルベルチーヌに対する想いは消えはじめ、小説は科学の観察のように、その過程をまた三百ページ以上にわたって記録するのだ。
次の引用は、ある人に対する想いが消え去ることの、非常に流麗なたとえである。
(ヴァントゥイユの)例の小楽節が、すっかり消え去る前に、そこに含まれる様々な要素に分解され、散りぢりになった状態でなおもいっとき漂ったとき、……今や自分の愛を形づくったさまざまな要素が、ある日には嫉妬の面、べつの日にはまたべつの面といったふうに、日ごとにひとつまたひとつと消え去り、結局すこしずつ当初のかすかな発端へ戻ってゆくのを理解していた私は、ほかならぬその愛が、散りぢりになった小楽節という形をとって崩壊してゆくのを目の当たりにする想いがした。(314-315)
上記の文章が書かれた時点では、まだアルベルチーヌへの想いはきえていない。しかし、それに予感されるように、ふとしたきっかけから、主人公はアルベルチーヌに対する自分の感情がすでに変化していることに気づくようになる。
「いえ、お芝居には参りません、たいそう愛していた女友だちを亡くしたものですから。」私はそう言いながら涙ぐみそうになったが、しかしそう言うことにはじめてある種の嬉しさを覚えた。このときからようやく私は、だれに宛てた手紙でも大きな悲嘆を味わったばかりだと書くことができるようになり、その悲嘆を感じなくなったのである。(380)
しばらくすると、次のような冷めた見方をするまでに、主人公にとって「アルベルチーヌを愛したということ」が、自分の身に起こったたんなる出来事のひとつになっている。この考えによれば、「うらぎり」とは、無力な楽観主義がもたらすひとり相撲の結果にすぎないのだ。
私は当初アルベルチーヌを罪深い女(ゴモラの女)だと思っていたのに、ひとえにわが欲望のせいで、おのが知性の力を最大限に発揮して疑う作業にいそしみ、わが道を誤ったのだ。ことによるとわれわれは地震のごとき衝撃的兆候にとり巻かれていて、それらを誠実に解釈しなければ人間の性格の真実など知ることはできないのだろう。正直に言うなら私は、たしかにアンドレの発言にはずいぶん悲しんだが、ついに現実が、私の本能がはじめに予感したことと合致したのは、そのあとで私が卑怯にも屈服した情けない楽観主義と合致するよりも、ずっとすばらしいことだと思った。(424)