想いの消えゆく過程を記録する 『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』 3/4

ここまでであれば『消え去ったアルベルチーヌ』は、ただの恋愛心理小説の名作に過ぎないかも知れない。しかし、小説の後半、物語は別の様相を帯びる。主人公のアルベルチーヌに対する想いは消えはじめ、小説は科学の観察のように、その過程をまた三百ページ以上にわたって記録するのだ。
次の引用は、ある人に対する想いが消え去ることの、非常に流麗なたとえである。

(ヴァントゥイユの)例の小楽節が、すっかり消え去る前に、そこに含まれる様々な要素に分解され、散りぢりになった状態でなおもいっとき漂ったとき、……今や自分の愛を形づくったさまざまな要素が、ある日には嫉妬の面、べつの日にはまたべつの面といったふうに、日ごとにひとつまたひとつと消え去り、結局すこしずつ当初のかすかな発端へ戻ってゆくのを理解していた私は、ほかならぬその愛が、散りぢりになった小楽節という形をとって崩壊してゆくのを目の当たりにする想いがした。(314-315)

上記の文章が書かれた時点では、まだアルベルチーヌへの想いはきえていない。しかし、それに予感されるように、ふとしたきっかけから、主人公はアルベルチーヌに対する自分の感情がすでに変化していることに気づくようになる。

「いえ、お芝居には参りません、たいそう愛していた女友だちを亡くしたものですから。」私はそう言いながら涙ぐみそうになったが、しかしそう言うことにはじめてある種の嬉しさを覚えた。このときからようやく私は、だれに宛てた手紙でも大きな悲嘆を味わったばかりだと書くことができるようになり、その悲嘆を感じなくなったのである。(380)

しばらくすると、次のような冷めた見方をするまでに、主人公にとって「アルベルチーヌを愛したということ」が、自分の身に起こったたんなる出来事のひとつになっている。この考えによれば、「うらぎり」とは、無力な楽観主義がもたらすひとり相撲の結果にすぎないのだ。

私は当初アルベルチーヌを罪深い女(ゴモラの女)だと思っていたのに、ひとえにわが欲望のせいで、おのが知性の力を最大限に発揮して疑う作業にいそしみ、わが道を誤ったのだ。ことによるとわれわれは地震のごとき衝撃的兆候にとり巻かれていて、それらを誠実に解釈しなければ人間の性格の真実など知ることはできないのだろう。正直に言うなら私は、たしかにアンドレの発言にはずいぶん悲しんだが、ついに現実が、私の本能がはじめに予感したことと合致したのは、そのあとで私が卑怯にも屈服した情けない楽観主義と合致するよりも、ずっとすばらしいことだと思った。(424)

プルーストによる恋愛のテーゼ 『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』 2/4

物語の前半では、亡きアルベルチーヌへの想いに打ちひしがれるとともに、主人公の独白を通し、「恋愛のテーゼ」というべきものが語られる。

自分がどんなことでも話すことができ、心中を打ち明けることのできる、こんな崇高な人には二度とめぐりあえないだろう、と私は思った。心中を打ち明ける?だがアルベルチーヌよりもほかの人たちのほうが、私はもっと多岐にわたるおしゃべりをしたのではないか?そのとおりだが、なぜそんな事態になるかといえば、信頼といい会話といい、そもそも凡庸なものだから、そこにただひとつ崇高なものたる恋心さえ混じれば、信頼や会話の不完全さの程度など問題にもならないからだ。(183)

フランソワーズから「アルベルチーヌさまはお発ちになりました」と告げられた日のアルベルチーヌとの別離は、さほど目立たないが、ほかの数多くの別離の寓意といってよかった。というのもわれわれは、自分が恋をしていると気づくために、もしかすると恋をするためにさえ、別離の日の来ることをしばしば必要とするからである。(201-202)

この文章やその次の文章を読むと、恋愛とはそれに夢中になっている最中ではなく、それが終わった後に、ああこれが恋であったのかと気付くものであるかのようだ。
言いかたをかえれば、恋愛とはそのものを定義できるものではなく、ある人物とのひとつひとつのエピソードを積み上げていった結果、(表現が適切かわからないが)ネガからポジに転換するように、遡及的に浮かび上がってくる感情なのだ。

したがって、私の選んだ女がいくらアルベルチーヌに似ていようと、また私がその愛情を獲得できたとして、その女の愛情がいくらアルベルチーヌの愛情に似ていようと、そのような類似は、私がそうとは気づかず求めていたものが、つまり私の幸福の再生には不可欠だったものが不在であること、要するにアルベルチーヌ自身が不在であること、ふたりでいっしょに暮らした時間や私がそうとは知らず探し求めていた過去が不在であることを、いっそう痛感させられるだけであった。(304)

『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』 プルースト 1/4

消え去ったアルベルチーヌたちへ

失われた時を求めて』は、二十三歳のときに半年の時間をかけて読んだ本である。当時読んだ鈴木道彦訳では「逃げ去る女」というタイトルがつけられていた第六巻、それが今回読んだ「消え去ったアルベルチーヌ」である。
このタイトルを見たとき、急に『失われた時を求めて』を再読したくなった。これまでの私の生活のなかで、消え去った人たちのなんと多いことか。それらの別れについて、少し自分の気持ちを整理したくなったのだ。
この読書は、そんな自分にとっての消え去ったアルベルチーヌたちにささげられている。

唐突な別れに動揺する感情

小説の主人公にとって、恋人であるアルベルチーヌとの別れは、唐突なものである。そして、その動揺する気持ちや、恋人を取りもどすためのむなしい努力が、巻の半分、約三百ページにわたって、記述される。

アルベルチーヌに戻ってくるなと電報を打ちたいくらいだった。ところがやはりアルベルチーヌに戻ってきてほしいという熱烈な欲望が、たちまちほかのすべてをのみこんで私を埋め尽くした。いっときアルベルチーヌに戻ってくるなと言い渡してひとりで生きてゆく可能性を想定したせいで、突然それとは逆に、アルベルチーヌが戻ってくるなら、自分のあらゆる旅行や快楽や仕事を犠牲にしてもいいと覚悟していることに気づいたからである。なんということか!アルベルチーヌにたいする私の恋心は、ジルベルトにいだいた恋心に即してその命運を予測できるものと想いこんでいたが、じつはジルベルトへの恋心とはなんと完全に対照的な展開を示したことだろう。アルベルチーヌに会わずにいることが私にはどれほど不可能に思われたことだろう。(78)

主人公の動揺は、感情の変化の大きさにも反映される。次は、声をかけた少女の家族とトラブルになり、主人公が落ち込む場面。

と同時に私は、人間というものは自分で思っている以上に何らかの夢のために生きている存在なのだと悟った。というのも二度と少女をあやすことができないと知って、私は人生からすべての価値を永久に奪われた気がしたからであるが、それだけではなく、ふつう損得と死への恐怖が世の中を動かしていると思われているにもかかわらず、人がいともたやすく財産に拒絶反応をおこしたり死の危険を冒したりするのがよく理解できたからである。(77)

些細な行動が「究極の選択」のような様相を帯びるのも、主人公の動揺の現われといえるだろう。

私にはどうしても手紙を出したいと思わせる傾向と、いったん手紙を出してしまうと私にそれを後悔させる傾向とは、もっともなことながら、べつの意味でどちらもそれなりの真実を含んでいる。前者の傾向とは……要するに、現下の苦痛にいますこし辛くないはずと想像されるべつの形をとらせようとしているのだ。しかし後者の傾向も、それに劣らず重要である。……この傾向は、やがて欲望の充足を目の当たりにしたときにわれわれが覚える幻滅のはじまり、いや、その予感されたはじまりにほかならず、自分のために幸福の形をこれだけと決めてしまい、ほかの形を犠牲にし排除したことへの悔恨に他ならないからである。(106-107)

一月に鑑賞した作品

1/8 『風の谷のナウシカ』 宮崎駿
1/17 『アンナと王様』 アンディ・テナント
   『羅生門・鼻』 芥川龍之介
1/24 『悪人と美女』 ビリー・ワイルダー
1/26 『名画への旅(7) モナ・リザは見た―盛期ルネサンス1』
1/30 『卒塔婆小町』 友枝昭世

十二月に鑑賞した作品

今月は以下の作品を鑑賞した。
12/5 『モガンボ』 ジョン・フォード
12/9 『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』 プルースト
12/12 『欲望という名の電車』 エリア・カザン
12/19 『イヴの総て』 ジョセフ・L・マンキウィッツ
12/21 アルヴァ・アアルト もうひとつの自然/名古屋市美術館
12/26 『ホーム・アローン2』 クリス・コロンバス
12/27 『吉田秀和全集3 二十世紀の音楽』

十一月に鑑賞した作品

今月は以下の作品を鑑賞した。
11/8 『レベッカ』 アルフレッド・ヒッチコック
11/15 『君去りし後』 ジョン・クロムウェル
11/20 『紅の豚』 宮崎駿
11/22 『王様と私』 ウォルター・ラング
11/27 『美女と野獣』 ビル・コンドン

十月に鑑賞した作品

今月は以下の作品を鑑賞した。
10/6 『百万長者と結婚する方法』 ジーン・ネグレスコ
10/13 『侏儒の言葉西方の人』 芥川龍之介
10/21 『宝石2』 春山行夫
10/24 『血と砂』 ルーベン・マムーリアン
10/29 『もののけ姫』 宮崎駿