『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』 ジェイ・ルービン

2011/9/16読了

村上は第一作を全部「理解」して書いていたわけではなかったにせよ、自分がしていることはわかっていた。心の中にある「もうひとつの世界」から不意に浮上してくる、うろ覚えの記憶やわかりかけていたイメージの中で探索をしているのだ。……合理的理解の欠如。物忘れ。自由連想。この世とパラレルな、時を超えたもうひとつの世界へとつながる深い井戸や暗い通路を、これらが開くのだ。(41)

「僕」にはうまく言い表せないけれど、「僕」にとって双子はまぎれもなく実態を帯び、いなくなれば寂しくなる存在なのだ。……しばし心を奪われていた人々、いくつもの物事、考え、そして言葉たちと「また会う」特別な「どこか」を見つけることこそが「僕」の探求(クエスト)であり、村上春樹の文学プロジェクトの要なのだ。(64)

空腹時に村上の心にどんなイメージが浮かぶかは別にして、「パン屋再襲撃」の文脈において海底火山が、過去に未解決のまま残されてきた問題を象徴していることは明白だ。無意識の中に留まり、いつ爆発して現在の静かな世界を破壊するかもしれない物の象徴だ。だが村上からすれば、それを象徴と名づけこのように定義してしまっては、そのパワーの大半が失われてしまう。ほかの作家たちと同じく、村上も、火山はただの火山としてなんの説明もせず、読者一人ひとりが心のなかでイメージをつくりあげるのを妨げはしないのである。(163-164)

私たちがハンブルクとサンタ・フェで垣間見る後年のトオルは、完全なソウルメイトである緑の幸せな夫では決してない。性的に機能しない直子の代わりとして、性的に機能しうるレイコと四回性交することで、トオルは暗黙のうちに生命(緑)よりも、死と否定性(直子)を選んでいたのだ。トオルは今後、緑の生命力に自分をゆだねることなく、直子の思い出とともに生きてゆくことになる。(192)

年来のお気に入りだったエリントンの曲をハジメが聴きたくないのは、島本さんを思い出してしまうためではなく、もうその曲が自分の心を打たなくなったからだ。この作品は中年期における敗北とともに終わる。(241-242)

トオルは妻と自分を探す過程で予期せぬ発見をする。彼は自国の近過去に醜悪な側面を見出していくのだ。その多くは暴力的で恐ろしく、日常生活の表層下にある。トオルはフォーク歌手を血が出るまでバットで殴り、殺しかけるなかで、自分のなかにもそれと同じ暴力を見出す。(256)
一見脈絡のない二つの話が一章おきに現われるにしたがって、読者の頭にひとつの関係が生じる。つまりこの戦争は、トオルが自分の内面に見出すものの一部なのだ。(265)

会ったこともない、まったく無縁の二人をつなぐのは、二人とも「巨大な生き物」に我慢の限界を超えるまで使われていたということだ。「生き物」の触角は、主にテレビを通じて、あらゆる場所に及んでいる。……テレビと同じように携帯電話も、「生き物」が用いるツールのひとつらしい。「逃げ切れない」というメッセージは携帯電話を介してそれを聞く者全員に、匿名で伝わっていく。(389-391)
いまマリの方は心のなかで自分自身と折りあいをつけ、姉と結びつく用意ができている。浅井姉妹はより深いレベルで分かりあうために必要な「井戸掘り」をこれまで怠っていたのだが、妹のマリの方にこれだけ自発的な気持ちが生まれたのだから、今度こそはじまるかもしれない。「夜はようやく明けたばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある」。(398)

そうした超自然現象を脳が生みだすプロセスに村上が心底魅了されていることも確かだろう。……神秘の物理的存在に対するみずからの理解を伝達するという能力こそ、村上の世界的人気の最大要因といってよいだろう。国籍も、超自然現象をどれだけ信じるかということも関係なく、事実上あらゆる人が共有している、人生の一瞬一瞬の「意義」という感覚を彼は捉えることができるのだ。物語レベルでの自殺や無意味な死がどれだけ含まれていようとも、村上作品の究極の意義がつねにポジティブなのは、この人生に対する感覚を伝えているからなのである(401-402)

ハルキ・ムラカミと言葉の音楽

ハルキ・ムラカミと言葉の音楽