『恋愛論』 スタンダール

2010/4/10読了

虚栄恋愛について

この平凡な関係でもっとも幸福なのは、肉体的快楽が習慣によって増大する場合である。思い出がこの関係をちょっと恋愛に似せる。すてられると自尊心の傷みと悲哀が生じる。そして小説的な想念が喉をしめつけるので、人は恋をしている、憂鬱であると思う。虚栄心から自分が偉大な情熱を持っていると思いたがるからである。確実なのは、どんな種類の恋愛に、その快楽を負っていようとも、魂の高揚があれば、すぐに快楽は強くなり、思い出はあとに残る。恋の情熱においては、他の多くの情熱とは反対に、失ったものの思い出は、将来に期待できるものよりはつねによく見える。
ときどき、虚栄恋愛では、習慣もしくはこれ以上いい相手は見つかるまいと思う心が、一種の友情を生じさせる。それは友情の中でいちばんおもしろ味のないものだ。それは確実性などを誇る。(12)

第二の結晶作用

疑惑の発生に続く夜、恐ろしい不幸のひとときの後、恋する男は一五分ごとにつぶやく。「そうだ、彼女はやっぱり私を愛している」。結晶作用は転じて新しい魅力を発見しはじめる。と、またものすごい眼をした疑惑が彼の心をとらえ、急に彼を立ちどまらせる。息が詰まりそうだ。彼はつぶやく。「しかし彼女は本当に私を愛しているのだろうか」。こうした心を引き裂く、しかし快い交互作用の中で、哀れな恋人ははっきりと感じる。「彼女が私に与える快楽は、彼女のほか誰も与えてくれはしない」
この心理の疑う余地のないこと、片手は完全な幸福に触れながらたどるこの恐ろしい絶壁の路、これこそ第二の結晶作用を第一の結晶作用よりはるかに重大なものとするゆえんである。(17-18)

恋する技術と親しさについて

恋する技術とは結局その時々の陶酔の程度に応じて、自分の気持ちを正確にいうことに尽きるようだ。つまりは自分の魂に聞くことである。これがあまりたやすくできると思ってはならない。ほんとうに恋している男は、恋人からうれしい言葉をかけられると、口をきく力がなくなる。
こうして彼は自分の言葉から生れる行為をしそうなら、時宜にかなわぬ甘い言葉を口にするよりは黙っているにこしたことはない。十秒前には適切であった言葉も、今はもうそうではなく、むしろまずい。私がこの規則を踏みはずして、三分前に頭に浮かんでおもしろいと思ったことをいうたびに、レオノールは必ず私をきめつけた。帰り道で私はつぶやく。彼女が正しい、ああいうことが繊細な女にはいちばん気にさわるのだ、これは感情の冒涜というものだ、と。(120-121)

恋をする時期と恋愛の想像力

「いつまでも飽きないためには想像力に頼るほかはない。どの女も違った興味を呼び起こすさ。同じ女だって、偶然、二、三年前か、二、三年後に知ったというだけの違いで、君がその女が好きになれば、違ったぐあいに愛することができるのだ。しかし相手がいくら情の深い女でも、君を愛していても、やはり平等になろうとするものだから、君の自尊心はいらだつだけだろうね。君の女に対する態度が、すべてほかの人生の喜びを殺すのだ。ウェルテルのはそれを百倍にもするけれど」(286)

恋愛論 (新潮文庫)

恋愛論 (新潮文庫)