2009/7/2読了
木村伊兵衛の写真
(1930年代に撮られた熱意と気負いにあふれた写真に比し)木村のは、まるで、“さっき撮った”かのように見える。写っているものは庶民の風俗史ということになるのだが、社会性を重んじた観察眼で撮っているようには見えない。むしろ、生活空間というものが時代を隔てることなく存在し続けている確信と喜びを、ごく個人的に撮り集めているようだ。(55)
「晩になればお酒を飲む。まるで、乞食の宴会ですよ。飲み代がないと、“貿易”というのをやるんです。つまりオークション。みんなてめえのものを持寄る」
木村の沖縄行は、そんな日々の延長だったのである。「舞踊から得た、ロマンティックな夢に憧れる以外に何も考えることは出来なかった」のであり、「向うへついてからも、風俗・習慣はちがうし、第一言葉が通じないので、夢の国へ行って、夢のように暮らしてきた」のである。「夢の国で暮らしている姿を撮りたかった」というだけなのだ。(78)
旅行者の見る風景……その感じは、むしろ日本で撮ったものの方が強いようにさえ思えてくる。庶民を撮ってはいるが、庶民の視線で庶民生活の内側から(あるいは内側までくいいって)撮られたものではもちろんない。木村はつねに旅行者として歩き続けた。だからどんな場所でも撮れたし、どんな場所も舞台と登場人物を設定した風景でもあるかのように撮ったのだ。写真の中の人物たちの、どこか遠い表情、それを写真の外かあら眺める観覧者たちの視線、ふたつの“遠さ”が内と外から孤独な満ち干を繰り返す。そこに見えてくるのは、庶民の生活感がある表情を撮ったと称してよしとするような単純なヒューマニズムではとうてい表現しえない、ぬきさしならない孤独と連続性のうちに存在し続ける「人間の生活」なのである。(232)
土門拳の写真
土門の沖縄は、図解のように撮られることとなる。構図も説明的なものが多い。沖縄のさまざまな習俗や建造物、医療などを撮っているが、たとえば市場の写真を見ても解説をそのまま写真にしたようにわかりやすく、そのカットをものにするまでの土門の粘りと構成力が実感できる。女性のポートレートも同様で、くっきりしたピントのせいもあるが、表情よりむしろ、着物や髪型、櫛などにも視線が引きつけられる。(79)
(リアリズム宣言について)彼と写真との不幸な出会いをはじめ、あらゆる挫折感の最大の原因でもあった貧しさへの怒りが、かような社会正義のための(後年の土門によれば文字通り社会主義のための)リアリズムを主張するようになった背景にはある。「強く訴える写真」で、豊かにたくましい「日本」のすがたを。日本人が常に理想像として参照できる映像芸術に残し、さらに理想から遠ざけられている歪んだ現実をピックアップして告発せねばならないという意識にかられる。(128-129)
二人の写真家の近代性とは
彼らの意思に近代的なしくみがあったとすれば、被写体のもっとも現実的な姿を、伝える相手にもっともわかりやすくそのままフィルムにとらえようとしてきた、その唯一の点においてであり、その意思は、写真という存在へのくもりのない信頼によってこそ実行にうつされてきたのだ。(326)
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