謎とき 村上春樹/石原千秋

2008/8/30-9/14
「「僕」がこの「手記」で一番隠したかったのはこのことだった。「僕」と鼠の友情物語は、実は「僕」と「小指のない女の子」の物語を内包しながら、「僕」と鼠と「小指のない女の子」との三人の物語に転換していたのだ。そして、「僕」が勝った。これが、象徴的なレベルでの「鼠殺し」なのである。」(『風の歌を聴け』(92))
「一九七〇年に語られた直子の言葉を引き受けた「僕」は、その言葉を「世界の果て」にまで運んでいく。それが「スペースシップ」探しの意味だったのだ。そして、「僕」は「スペースシップ」と幻の言葉を交わした。」(『1973年のピンボール』(159))
「一九七三年の九月から十一月までの三ヶ月間の出来事は、「僕」に何かを終わらせた。そのことで「僕」は癒され、自分のための時間(日常の時間)を取り戻したが、そのために「僕」は多くのものを失ってもいたのだ。治ること、癒されることは、そういうことだった。しかし、繰り返すが、「僕」が失ったものは、いつかは神話のように甦るだろう。抑圧されたものは必ず回帰する。(『1973年のピンボール』(163))
「珍しく昔話をしている。しかも三十分も。ここの段階になると、「僕」の周りに昔が戻ってきているのだ。「羊をめぐる冒険」のプロセスを通して、「僕」はまちがいなく時間を取り戻している。昔を取り戻しているのである。「羊をめぐる冒険」は、「時間をめぐる冒険」であって、それは「時間を取り戻す物語」だったのである。(『羊をめぐる冒険』(204-205))
「(物語のラストで「僕」が泣いた動作から、「僕」が羊博士の時間をもらったことを指摘し)これで前に論じた死と再生の儀式がすべて終わった。「僕」はようやく一人前になり、新しい物語を生きることができるようになった。これが「時間をめぐる物語」の結末だ。」(『羊をめぐる冒険』(218))
「ワタナベトオルにしてみれば、敗者から贈り物をもらってもありがたみがない。弱い男からもらうのは贈り物ではないからだ。直子が「腹を立てていた」のは実はそうゆうことのすべてが、わかっていたからだろう。直子にしてみれば、キズキと自分との関係が、男同士の力比べに置き換えられてしまったようなものだからである。」(『ノルウェイの森』(298))
ノルウェイの森』に関しては、物語の後半からホモソーシャルな物語の裂け目から、直子の物語が立ち上がってくることも指摘されている。