1973年のピンボール/村上春樹

2007/11/25-12/4
「そしてガラス窓に映った僕の顔をじっと眺めてみた。熱のために目が幾らかくぼんでいる。まあいい。午後五時半の髭が顔をうす暗くしている。これもまあ良かろう。でもそれはまったく僕の顔には見えなかった。通勤電車の向いの席にたまたま座った二十四歳の男の顔だった。僕の顔も僕の心も、誰にとっても意味のない亡骸にすぎなかった。僕の心と誰かの心がすれ違う。やあ、と僕は言う。やあ、と向こうも答える。それだけだ。誰も手を上げない。誰も二度と振り返らない。
もし僕が両耳の穴にくちなしの花をさして、両手の指に水かきをつけていたとしたら何人かは振り返るかもしれない。でもそれだけだ。三歩ばかり歩けばみんな忘れてしまう。彼らの目は何も見てなんかいないのだ。そして僕の目も。僕は空っぽになってしまったような気がした。もう誰にも何も与えることはできないのかもしれない。」(79)
「(ピンボールとの再会の場面で)彼女はニッコリ微笑んだまま、しばらく宙に目をやった。なんだか不思議ね、何もかもが本当に起ったことじゃないみたい。
いや、本当に起ったことさ。ただ消えてしまったんだ。
辛い?
いや、と僕は首を振った。無から生じたものがもとの場所に戻った、それだけのことさ。
僕たちはもう一度黙り込んだ。僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖い想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。
もう行ったほうがいいわ、と彼女が言った。」(166)